2019年07月28日

江戸川乱歩「影男」2

小男の来訪


 影男は約束をたがえなかった。その翌日午前十時、ひとりの浮浪者のような男が、川波家の庭にはいってきて、なわを解いてくれた。
「きみはゆうべの男の手下かね」
 さるぐつわがとれたとき、良斎の口から最初に出たことばはそれであった。
「手下だって? ぼくはそんなもんじゃありませんよ。この先の銀行の前で日なたぼっこをしていると、変なやつが来て、五百円くれたんです。このうちへ行って、門はあいたままになっているから、裏庭へ行くと、寝巻きを着たここのうちのだんなが、木にしばられているから、なわを解いてやれっていうんです。そうすりゃ、たんまりお礼がもらえるからってね。それで、やって来たんですよ」
 良斎は立ち上がって苦笑いをした。あの黒いクモみたいな男は何者だろう。なんて抜けめのないやつだ。
「そうか。そりゃありがとう。じゃ、こっちへ来たまえ。お礼をあげるから」
 良斎は家にはいって、数枚の紙幣を持ってきて、男に与えた。愚かものらしいその男は、深くも疑わず、それ以上の欲も出さないで、そのまま帰っていった。
 それから数日のあいだ、良斎は悶々もんもんとして楽しまぬ日を送った。雇い人を全部追い出してしまったので、会社に電話をかけて、家政婦をふたりよこすように命じ、やっと食事にありついたが、気分がわるいからといって、会社へも工場へも行かなかった。客もみな断わって、ひと間にとじこもり、酒ばかり飲んでいた。
 すると、五日ほどたったある日、取り引き銀行の支店長がたずねてきた。おり入ってお話があるというので、利害関係のあることだから、追い帰すわけにもいかず、応接間に通させておいて、行ってみると、見も知らぬ小男が、大きなアームチェアにちょこんと腰かけていた。
「あなたは……? 支店長が替わられたのですか」
 良斎が不審顔に尋ねると、小男はイスから立って、ニヤニヤ笑いながら、おじぎをした。
「非常に重大な用件で伺ったのです。じつは、わたしはこういうものです」
 といって、名刺をさし出した。受け取ってみると、それにはギョッとするような肩書きが印刷してあった。
殺人請負会社専務取締役
須原        正
 読者はご存じの名まえである。いつか影男が人工底なし沼の殺人技術を教えてやったあの殺人会社の須原正すはらただしであった。しかし、良斎はそういう不思議な会社の存在をまったく知らなかったので、こいつ精神病者ではないかと、びっくりして相手の顔を見つめた。
「いや、お驚きはごもっともです。いきなりこんな物騒な名刺をだれにも出すわけじゃありません。銀行支店長の名をかたったりして、あなたに追い帰されては困ると思いましてね。その予防策に、ちょっとお驚かせしたのです。しかし、この名刺はでたらめじゃありません。わたしは、こういう会社を経営しておるのです。たぶん、あなたはこんな事業に興味をお持ちになると思いますが……」
 小男の須原は、いつかと同じ黒い服を着ていた。サルのような顔をした風采ふうさいのあがらぬ男だ。そのサルの顔で、ニヤニヤ笑いながらいうのである。
「殺人請負会社というのは、つまり人殺しを引き受ける会社という意味ですか」
 良斎はあきれた顔で聞き返した。ズバリとそんな名刺を出した大胆不敵さに、まだ納得ができないのだ。
「そうです。料金をいただいて、人殺しを請け負うというわけですよ」
 ますます恐ろしいことをいう。やっぱり気ちがいではないのかしら。
「で、わたしがそういう会社に興味を持っているというのは?」
 良斎はむずかしい顔をして、相手をにらみつけた。
「アハハハハ、それはもう、じゃの道はヘビですよ。わたしは五日ばかり前の晩の、ここのお庭でのできごとを、何もかも知っているのです。だからこそ、お伺いしたのですよ」
 良斎はこんどこそ、ほんとうにギョッとして、思わず顔色が変わった。しかし、さりげなく、
「ここの庭で、どんなことがあったというのです?」
「いや、お隠しになることはありません。わたしはすっかり知っているのです。それに、他人に漏らすようなことはけっしてありません。わたしの会社としては、だいじな財源ですからね。あなたは大きなおとくいさまになられるかたですからね。しかし、ただこう申しても、ご信用がないかもしれません。では、わたしがどれほど知っているかということをお話しいたしましょう。
 あなたは、奥さんと、奥さんの情人とを、庭の土の中へ生き埋めになさった。そして、首だけを土の上に出しておいて、大きなかまで、その二つの首を刈り取ろうとなすった。ところが、そこへ不思議な人物が現われた。黒い覆面をして、まっくろなシャツのようなものを着たやつです。あなたはそいつに縛られてしまった。そいつは土に埋められていたふたりを助け出して、どこかへ連れ去ってしまった。どうです。これだけいえば、もうご信用くださるでしょうね」
 良斎はそういわれても、まだ相手を信用する気になれなかったので、だまっていた。小男須原はしゃべりつづける。
「もう一つ、わたしはあなたのご存じないことまで知っています。それは、あのとき、あなたをひどいめに会わせたまっくろな怪物の正体です……」
「エッ、きみはそれを知っているのですか?」
 良斎は思わず聞き返した。須原は相手の驚きを見て、それ見たことかと、いっそうおちつきはらって、
「あれは恐ろしい男です。名まえを五つも六つも持っていて、変幻自在の奇術師です。自分では悪事を働きませんが、犯罪者をゆすって、そのうわまえをはねるというすごい男です。つまり、世の中の裏側を探検して、ばくだいな金をもうけ、またそれを材料にして、一つの変名で小説まで書いているのです。まず天才でしょうかね。実は、わたしの会社も、あの男の知恵を借りて仕事をしたことがあるのです。ちょっと残酷なふくしゅう殺人でしたがね。あの男はその案を授けておきながら、こんな残酷なことはいやだといって、われわれから離れていきました。惜しいことに、真の悪人ではないのですね。しかし、われわれの会社としては、いろいろな意味で注意すべき人物ですから、できるだけかれの情報を手に入れる努力をしているのです。あなたの事件にかれが関係したことは、そういうわけで、われわれも知っているのですよ」
 須原は何もかも正直にぶちまけて語ったが、むろんそれは、かれが善人だからではない。真の悪人というものは、この人ならばだいじょうぶという見通しをつけた場合は、まるでお人よしのように、隠しだてをしないものだ。こういう話し方をするからには、かれは川波良斎が必ず会社の依頼人になるという確信を持っていたにちがいないのである。
 良斎も商売上の取り引きにかけては、わかりの早いのを自慢にしているほどの男だから、ここまで聞けば、もうちゅうちょすることはないと思った。須原というサル面の小男は、見かけによらぬ大胆不敵な悪党で、信頼するに足るという感じがしてきた。
「それで、きみがきょう、わたしをたずねてくださった意味は?」
 わかりきったことを、わざと尋ねてみた。
「この際、殺人請負業者にご用がおありだと思いましてね」
 相手もすましている。
「そんなにやすやすとやれますか」
「相手によって、むろん難易はあります。しかし、わたしどもの会社は、いまだかつて、途中で手を引いたことはありません。必ずなしとげるのです。しくじれば、われわれ自身のいのちにかかわるのですからね。また、万一われわれが逮捕せられるようなことがありましても、そして、たとえ死刑の宣告を受けようとも、けっして依頼人の名は出しません。その保証がなければ、この商売はなりたちません。大枚の報酬をいただくのですから、それは当然のことですよ」
「大枚の報酬というのは、いったいどれほど……」
 良斎はなにげなく尋ねたが、その目にしんけんな色がちらっときらめいた。
「それも場合によります。仕事の難易と、依頼者の資産から割り出すのです」
「すると、わたしの場合は?」
 たとえドアの外で家政婦が立ち聞きしていたとしても、ふたりの声はけっして聞きとれないほどの低さであった。
「篠田ですか、美与子夫人ですか」
「両方です。そのほかにもうひとりあります」
「あのまっくろな怪物ですか」
「そうです。あいつは、いったい、なんという名まえなんです」
「わたしにもわかりません。わたしが会ったときには佐川春泥という小説のほうのペン・ネームを使っていましたが、そのほかに速水荘吉、鮎沢賢一郎、綿貫清二など、いろいろの名を持っています。住所もそれぞれ違いますし、名によって、顔つきまで変わってしまうのです。変装の名人です」
「そんなやつが、きみの手におえますか。それに、その男はきみの会社の顧問のようなことまでやった関係がある。それでもやっつけることができるのですか。商売上の徳義というものもあるでしょう」
 それを聞くと、小男はニヤリと笑った。ふてぶてしい笑いだった。
「あいつは、先方からわれわれを捨てて逃げたのです。今は何の縁故もありません。ああいうやつを敵に回せば、おおいに張り合いがあるというものですよ」
「それで、報酬は?」
「三人ともこの世から消せばいいのでしょうね。そして、それがあなたにはっきりわかればいいのでしょうね。消し方についての特別のご注文はないのでしょうね。それによって報酬がちがってくるのです」
「注文をつけないとしたら?」
「あの黒い怪物だけは別です。普通の場合の数倍いただかなければなりません。最低二千万ですね。ほかのふたりは、三百万円ずつでよろしい。むろん、仕事が成功して、その結果をあなたが確認したあとで、お払いになるのです。着手金などはいただきません」
「あとになって支払わない場合はどうなさる?」
「ハハハ、それは少しも心配しません。依頼者その人を消してしまうからです。つまり、いのちが担保ですよ。どんなばくだいな報酬でも、いのちには替えられませんから、けっきょくは支払うことになるのです。今までにもそういう例がいくつかあります。この事業は、けっして報酬を取りはぐる心配がないのです」
 かれらのあいだの丸テーブルの上には、良斎がさっきからちびちびやっていたウイスキーびんとグラスがあったが、良斎はそのとき、立っていって、飾りだなからもう一つグラスを出してきて、須原の前に置いた。
「一杯いかがです」
 と、びんの口をとると、小男は舌なめずりをして、グラスを手にした。
「目がないほうです。しかし、このグラスなら三杯ですね。それ以上はやりません。酔うからです。酔っては商談にまちがいがおこります」
「じゃ、乾杯しましょう」
 二つのグラスがカチンとぶっつかり合った。
「ご依頼しました。三人とも消してください。そして、その確証を見せてください。幾日ほどかかりますか」
「ふたりは一カ月もあればじゅうぶんです。しかし、あの黒いやつは、その倍も見ておかなければなりません。まず全体で二カ月というところでしょうね」
「よろしい。それじゃ約束しましたよ」
 良斎はそういって、ぐいとウイスキーを飲みほすと、さも楽しそうに笑いだすのであった。

殺人前奏曲


 篠田昌吉と川波美与子のふたりは、あの晩は覆面の男の麹町こうじまちのアパートに一泊して、その翌日、百万円を預金通帳にしてもらって、それを受け取ると、黒覆面の世話で、その日のうちに、墨田区すみだく吾嬬あずま町の小さなアパートにひと間を借りた。篠田青年はそれまで渋谷のアパートに住んで、丸の内の東方鋼業に通勤していたのだが、そのアパートを引きはらって、行く先も告げず移転した。会社も無断でやめてしまった。
 良斎の執念深いふくしゅうを避けるためである。覆面の男は、速水荘吉と名のった。あの晩、川波邸から二、三町はなれた町かどに自動車が待っていて、三人でそれに乗りこむと、男は覆面をとり、クッションの下から変装用の大カバンを引き出して、車内でセビロを着た。覆面の怪物がりっぱな青年紳士に早変わりをしたのだ。そして、速水荘吉と名のり、ふたりをひとまず麹町のアパートへ連れていったのだ。
 吾嬬町のアパートへ引っ越して一週間ほどたったある日、篠田昌吉がびっこを引いて帰ってきた。友だちをたずねての帰途、建築中のビルの下を通りかかったとき、突然、上から鉄筋の断片が落ちてきて、足先に当たったというのだ。
 くつ下を脱いでみると、小指の辺がおそろしくはれ上がって、紫色になっていた。
「ちょっとのちがいで助かった。もしあれが頭に当たっていたら、死んでしまったかもしれない」
「で、それを落とした人は、わからなかったの?」
 美与子が尋ねた。
「建築事務所へどなりこんでやったが、先方はあやまるばかりで、技師は、そんなものが人道へ落ちるはずがない、おかしい、おかしいと首をかしげているばかりさ」
 さっそく、医者に見てもらったが、心配したほどのこともなく、十日もすれば直るだろうといって、手当をしてくれた。でも、しばらくはくつもはけず、ぞうりばきで、びっこを引いて歩かなければならなかった。
 そのびっこが直らないうちに、かれはまた外出した。ちょっと足ならしに散歩するつもりのが、つい遠くまで行ってしまった。見なれない大通りだった。ステッキにすがってゆっくり歩いていると、向こうから一台の自動車が走ってきた。あまり交通のはげしくない通りなので、おそろしいスピードを出している。
 アッと思うまに、もう目の前に近づいていた。瞬間のできごとだったが、左へよければ先方も左へ、右によければ先方も右へ、こちらの逃げるほうへ迫ってくるように思われ、道のまんなかでドギマギしたが、とっさに心をきめて、相手にかまわず、一方へ駆けだした。足の痛みも忘れて走った。しかし、傷ついた足は、やはり思うままにならず、パッとステッキが飛んで、かれのからだはアスファルトをたたきつけるようにころがっていた。
 自動車のタイヤは、かれのからだとすれすれのところを、うなりを生じて飛び去っていった。うしろの番号を見るひまも何もなかった。たちまち向こうの町かどを曲がって、見えなくなってしまった。
 さいわいたいしたケガはなかったけれど、むりに走ったので、足の傷が痛みだした。アパートへ帰りつくのがやっとだった。
「どうもおかしい。あの自動車は、ぼくの逃げるほうへ追っかけてきた。ぼくをひき殺そうとしているようなけんまくだった。車には人相のわるい運転手がひとり乗っているばかりだった。タクシーじゃない。ハイヤーか自家用車らしい」
 篠田がそれを話すと、美与子も心配そうに、
「へんだわねえ。あなたが外へ出るたんびに、あぶないことが起こるのだわ。ねえ、もしかしたら……」
「エッ、もしかしたら?」
「川波が、あたしたちがここに住んでいることを気づいたのじゃないかしら。そして、だれかにたのんで、あなたのいのちをつけねらっているんじゃないかしら。あの人、まるで気ちがいなんだから、何をするかわかりゃしないわ」
「まさか、このアパートを気づくはずはないよ。あの人にはまるで縁のない方角だもの。それに、もとのぼくのアパートにも、会社にも、ここのことは何もいってないんだからね」
「でも、あたし、なんだか不安でしかたがない。この二、三日、買い物に出るたびに、だれかに尾行されているような気がするのよ。ですから、ときどき、ひょいと突然ふり返ってやるんだけど、べつに怪しい人は見当たらない。それでいて、絶えずだれかに監視されているように思われるの。あたしこわいわ」

毒チョコレート


「きみは神経質だよ。まさか、このアパートを気づいてはいまい。おそらく偶然だ。びくびくしているもんだから、そんな気がするんだよ」
 必ずしも偶然とは思っていないのだけれど、昌吉はわざとのんきらしくいってみせた。しかし、かれも、良斎が殺人請負会社に依頼して、ふたりのいのちを取ろうとしていることまでは、想像もしていなかった。
「でも、あたしも気味のわるいことがあるのよ。ちょっとでも外へ出ると、きっとだれかが、あたしをじっと見つめているような気がするの。歩けば、あとからついてくるのよ。で、不意にひょいと振り向いてやるんだけど、いつでも向こうのほうがすばやいらしいわ。パッとどこかへ隠れてしまうのよ」
 美与子は、気味わるそうに、うしろを見た。
「それも気のせいかもしれないぜ。ぼくの場合と同じで、はっきりしたことは何もないじゃないか」
「だからこわいのよ。相手がはっきりわかってれば、速水さんに相談もできるんだけど。まるで幽霊みたいに正体を現わさないでしょう」
 昌吉は、ふくしゅうの悪念に燃えた川波良斎の顔を思い出した。ヘビのようにサーッと音をたてて草むらを歩くという、あの男のことを思い出した。かれは立っていって、そっと窓のガラス戸を細めにひらき、前の往来を見おろした。
 自転車に乗ったご用聞きらしい小僧が通っていった。アパートの隣家の娘が盛装をして、どっかへ出かけていくのが見えた。保険の勧誘員みたいな、カバンをさげたあぶらっこい顔つきの中年男が、てくてくと通りすぎた。自転車のうしろに大きな金網のかごをつけた郵便配達が、アパートの前で自転車を降り、かごの中からいくつかの小包郵便を取り出して、下の入り口に姿を消した。どこにもうろんな人影はなかった。電柱の陰にも、向こう側の路地の中にも、人の隠れている様子はなかった。
「怪しいやつはいないよ」
 それが当然だという顔をして、もとの席にすわった。
「そうよ。あたしも、ときどき、そこからのぞいてみるんだけれど、怪しい人はいないわ。それでいて、外へ出ると、だれかがあたしをじっと見ているのよ」
 もしかしたら、その怪しいやつは、アパートの外ではなくて、中にいるのではないか。こうしている今も、ドアの外の廊下で、じっと聞き耳を立てているのではないだろうか。ふと、そんなことを考えると、ゾーッと背中が寒くなった。
 そのとき、コツコツと、ドアにノックが聞こえた。ちょうどそのドアのことを考えていたので、ふたりともギョッとして、おびえた目を見合わせたが、ドアがひらいて顔を出したのは、アパートの主人の奥さんだった。四十五、六のあいそうのよい奥さんが、ニコニコして、何か大きな小包をさし出した。
「これ、いま来ましたのよ」
 さっきの郵便配達が置いていったのにちがいない。
 昌吉が受けとって、美与子に渡した。薄べったい大きな箱だ。差し出し人は速水荘吉となっている。気ちがい良斎の大鎌おおかまからふたりを助けてくれたあの人物だ。包みを解くと、きれいなチョコレートの大箱が出てきた。ふたりが世を忍んで窮屈な思いをしているのを慰める意味で贈ってくれたのであろうか。それにしては、なんとなく唐突な贈り物であった。
 昌吉はふたをとって、丸いチョコレートを一つつまんで、口へ持っていこうとした。
「あら、ちょっと……」
 美与子がそれを止めるようなしぐさをしながら、妙にのどにつまったような声でいった。
「なぜ」と目できくと、
「気のせいでしょうか。なんだか変だわ。探偵たんてい小説のことを思い出したの。西洋の探偵小説に、毒入りチョコレートを贈って、人を殺す話があるでしょう。このあいだから、あんなことがつづいたんだから、気になるのよ。このチョコレート、あぶないと思うわ」
 昌吉は笑いだした。
「ハハハハハ、きみはほんとうに、どうかしているよ。速水さんはぼくらを助けてくれた人じゃないか。その速水さんが、ぼくらを殺そうとするはずがないよ」
「だから、速水さんの名をかたって、あたしたちをゆだんさせようとしたのかもわからないわ」
「じゃあ、これを送ったのは速水さんじゃないというの?」
 昌吉もしんけんな顔になった。
「速水さんに電話をかけて、たしかめてみるわ。それまで、たべないでね」
 美与子は大急ぎで下の電話室へ降りていったが、しばらくすると、青ざめた顔でもどってきた。
「やっぱりそうだったわ。速水さん、送った覚えがないんですって。そして、アパートを変わるほうがいいっていってたわ。ぼくが別のアパートを捜してあげるって」
 ふたりは、しばらく顔見合わせて、だまっていた。良斎の恐ろしい顔が、すぐ近くに漂っているような気がした。
「でも、速水さんて人、よくわからないわね。わたしたちを助けてはくれたけれど、やっぱり悪人にはちがいないわ。良斎をゆすって、お金を取るために助けたようなもんだわ」
「そうだよ。ぼくもなんだか安心ができないような気がする。このチョコレートは、ほんとうは警察に届けたほうがいいんだがね」
「でも、そんなことしちゃ、速水さんが迷惑するでしょう。困ったわね。いのちを助けてくれた人が、まともな世渡りをしていないなんて」
「それに、ぼくたちのほうにも弱みがあるんだしね」
「あたし、このあいだから考えていることがあるのよ」
 美与子の目に、妙な輝きが加わったので、昌吉は、不思議そうに、その顔を見つめた。
明智あけち小五郎っていう私立探偵知ってるでしょう? あの人ならば、警察じゃないんだから……」
「相談してみるというの?」
「ええ、このチョコレートも、あの人のところへ持っていって、分析してもらえばいいと思うわ」
「ぼくが行ってみようか」
「そうしてくださる? でも、尾行される心配があるわ。よほど注意しないと」
「タクシーをいくつも乗りかえるんだよ。逆の方角へ行って、別の車に乗って、また別の方角へ行くというふうに、何度も乗りかえて、尾行をまけばいい」
「そうね。じゃ、あなた行ってくれる?」
 相談がまとまったので、美与子は下へ降りていって、電話帳で明智探偵事務所を捜して、電話をかけた。すると、明智はさいわい在宅で、待っているからという返事だった。昌吉はチョコレートの箱を新聞紙に包んで、出かけていった。
 二時間ほどして帰ってきた。もう夜になっていた。
「だいじょうぶ?」
 美与子が心配そうに、かれの顔を見上げて尋ねた。
「尾行のことかい?」
「ええ」
「タクシーを乗りかえるたびに、じゅうぶんあたりを見まわして、ほかに車のいないことを確かめたから、絶対にその心配はないと思う。だが、タクシー代はずいぶんかかったよ」
 昌吉はそこにすわって、タバコをつけた。
「あのチョコレートには、やっぱり青酸化合物がはいっていた。明智さんが簡単な反応試験をやってくれた」
「まあ、やっぱり……」
「きみが注意してくれたので、いのち拾いをしたよ」
 だが、美与子には、いのち拾いをしたということよりも、今後の恐怖のほうが大きかった。
「で、明智さんは、なんておっしゃるの?」
「アパートを変わるのもわるくはないが、相手に見つからないように変わるのは、ちょっとむずかしいだろうというんだ。明智さんは速水さんのことも知ってたよ。あれは不思議な男だといってた。なんだか速水さんのことを、まえから調べてるらしいんだよ。あの人は、やっぱり相当悪いことをしているんだね。それからね、明智さんは、毒チョコレートを送ったり、ぼくに自動車をぶっつけようとしたのは、川波良斎自身じゃない。第三者が介在しているというんだよ。その第三者というのが、なんだか恐ろしいやつらしい。明智さんは、そいつに非常に興味を持っているように見えた」
「良斎がその男に頼んだのね」
「うん。明智さんはそうらしいというんだ。なにかいろいろ知っている様子だが、ぼくにははっきりしたことはいわなかった」
「で、あたしたちはどうすればいいの?」
「なるべく外出しないようにしていろっていうんだ。速水さんがアパートをかわれというなら、かわってもいいが、引っ越しのときは、じゅうぶん気をつけるようにというんだ」
「それで?」
「どういう方法か知らないが、明智さんがぼくらを守ってくれるというんだ。報酬なんかいらない。速水という男も、良斎が頼んだもうひとりの男も、非常に興味のある人物だから、進んで調べてみるというんだよ」
「それだけでだいじょうぶかしら?」
「ぼくが不安な顔をしているとね、明智さんは、絶えずあなたがたの身辺を見守っているから、わたしに任せておけばいい。少しも心配することはないと、請け合ってくれた」
 ふたりはいちおうそれで満足しておくほかはなかった。警察に届けられないとすれば、これ以上の方法は考えられないからだ。
 だが、そういううちにも、悪魔の触手はすでにしてこの可憐かれんなる恋人たちの身辺に迫っていたのである。

壁紙の下


 それから三日ほどは、なにごともなく過ぎ去った。ふたりは注意に注意をして、アパートにとじこもっていた。
 四日めの午後、速水から電話がかかってきた。港区の麻布あざぶに、しろうと家の離れ座敷を見つけたから案内する。一時間もしたら自分の自動車が迎えに行くから、それに乗って来るように、自分は先方で待っている、というのであった。むろん、ふたりでいっしょに行くことにした。少しでも離ればなれになっているのは心細かったからだ。
 やがて、キャデラックが表に着き、ひとりの運転手が速水の手紙を持って上がってきた。手紙には、一度家を見てから、改めて引っ越せばいいのだから、荷物は持ってくるに及ばない、と書いてあった。また、この運転手は長くわたしが使っていて、気心の知れたものだとも書いてあった。運転手は四十五、六歳に見える実直そうな男だった。服装もきちんとしていた。
 ふたりは自動車に乗るとき、じゅうぶん町の右ひだりを見まわしたが、近くに別の自動車はいなかったし、怪しい人影もなかった。
 車は隅田川すみだがわを越して、浅草から上野へと走った。
「速水さんは、向こうに待っていらっしゃるのでしょうね」
 美与子が確かめると、運転手はニコニコした顔で振り返って、
「向こうのご主人とお話があるといって、わたしひとりでお迎えにあがったのです。まちがいなく向こうにいらっしゃいますよ」
 と答えた。
 五十分近くかかって、六本木にほど近い住宅街にとまった。門内に庭のある古い西洋館だった。車を降りて玄関をはいると、三十前後のセビロを着た男が出てきて、「どうかこちらへ」と先に立った。
「速水さんはいらっしゃるのでしょうね」
「はい、あちらでお待ちになっています」
 長い廊下を通って、奥まった一室に案内された。男は、「しばらくお待ちください」といって、ドアをしめて出ていってしまった。
 なんとなく異様なへやであった。広さは六畳ぐらい。まんなかに小さな丸テーブルと、そまつなイスが二脚置いてあるばかりで、飾りだなも何もない殺風景な小べやだった。窓というものが一つもないので、昼間でも電灯がついていた。四方とも壁にかこまれていて、それにけばけばしい花模様の壁紙がはりめぐらしてある。へや全体はひどく古めかしいのに、この壁紙だけが新しいのが、妙に不調和だった。
 いつまで待っても、だれもやって来ない。さっきの男は、いったいどうしたのだろう。速水荘吉はどこにいるのだ。ふたりはだんだん不安になってきた。
 昌吉がドアのところへ行って、ひらこうとした。だが、いくらノッブをまわし、ガチャガチャやっても、ドアはひらかない。
「外からカギがかかっている」
 かれは美与子を振り返ってつぶやいた。顔色がまっさおになっている。
「だれかいませんか。ここをあけてください。速水さんはどこにいるのです」
 どなりながら、ドアを乱打した。しかし、なんの反応もない。家の中はひっそりと静まりかえっている。いよいよただごとでない。
 さては、良斎のわなにはまったのかな。ふたりはどちらからともなく駆けよって、手を取り合った。
 すると、そのとき、どこからともなく変な声が聞こえてきた。
「きのどくだが、速水はここには来ていない。ちょっとあれの名を使って、きみたちをおびき出したんだよ」
 それは電気を通した声、つまりラウドスピーカーの声であった。昌吉は思わず天井を見まわした。ああ、あれだ。天井の一方のすみに、細かい金網が張ってある。声はその拡声器から漏れてくるのだ。
「ぼくたちは速水さんに用事があってやって来たんだ。ここに速水さんがいないとすれば、一刻もこんなへやにいる必要はない。早く帰らせてくれたまえ」
 昌吉は、むだとは知りながら、ともかくも叫ばないではいられなかった。すると、その声が相手に聞こえたとみえて、またラウドスピーカーから、ぶきみなしわがれ声が漏れてくる。
「そっちに用がなくても、こっちにだいじな用があるんだ。苦労をしておびきよせたきみたちを、帰してたまるものか」
「ぼくたちになんの用事があるんだ。そして、きみはいったい何者だ」
 こちらはもう震え上がっているのだけれど、虚勢を張ってどなり返す。
「おれは人殺しのブローカーだよ」
「エッ、なんだって?」
「人殺し請負業さ。わかったかね」
「それじゃ、きさま、川波良斎に頼まれたというのか」
「だれに頼まれたかはいえない。営業上の秘密だよ。いま川波良斎とかいったな。そんな人は知らないよ。聞いたこともないよ」
 そのとき、美与子が昌吉のそでを引いた。ふりむくと、彼女のおびえた目が、ドアの側の壁の天井に近いところを見つめている。昌吉もその視線を追った。今まで少しも気づかなかったが、その壁の上部に、一尺四方ぐらいの小さな窓があった。窓といっても通風のためのものではなくて、厚いガラス板がはめこんである。ひらかない窓だ。
 その四角なガラスの向こうに、何かもやもやとうごめいていた。よく見ると、人間の顔であった。見知らぬ中年男の顔であった。それが薄気味わるくニヤニヤと笑っていた。昌吉はその顔を下からにらみつけて、
「おい、きみはぼくたちをどうしようというのだ?」
 すると、ガラスの向こうの男の口がモグモグ動いた。そして、見当ちがいのラウドスピーカーから、いやらしい、しわがれ声が聞こえてきた。
「それが聞きたいかね。よろしい、聞かせてやろう。きみたちはそのへやへはいるときに、ドアのところだけが廊下の壁から深くくぼんでいるのを気づかなかったかね。壁からのくぼみが六、七寸もあるんだ。そのアーチのようになった内側は、ちかごろ塗りかえたように、漆喰しっくいが新しくなっているのを見なかったかね。
 このへやはね、つい一カ月ほどまえまでは、そのドアの外も壁になっていたのさ。わかるかね。ドアの外の壁のくぼみいっぱいにレンガを積んで、漆喰でかためて、廊下の壁と見分けがつかぬようになっていたのさ。つまり、外から見たのでは、こんなところにへやがあることは、少しもわからなかったのだよ。ハハハハハ、まあ、ゆっくり考えてみるがいい。それが何を意味するかをね」
 そして、ガラスの外の顔が消えると、その四角な窓がまっくらになってしまった。ふたを締めたらしい。
 昌吉は、もう一度ドアにぶつかっていった。
 勢いをつけて走っていって、肩で突き破ろうとした。しかし、ドアはびくともしない。よほどがんじょうな板でできているらしい。
 かれはあきらめて、ぐったりとイスにかけた。美与子もその前のイスにかけていた。ふたりはだまって目を見かわすばかりだった。
「さっきの電話は、たしかに速水さんの声だったのかい?」
「ええ、速水さんとそっくりだったわ。でも、そうじゃなかったのね。だれかが速水さんの声をまねてたんだわ」
 ふたりは速水の筆跡を知らなかったけれど、あの運転手が持ってきた手紙も、速水の筆ぐせがまねてあったのかもしれない。なんという悪がしこい悪魔だ。
 あいつはさっき「おれは殺人ブローカーだ」といった。気ちがい良斎が頼んだのにきまっている。だが、こんなへやへ閉じ込めて、どうする気なのだろう。ふたりが飢え死にするのを待つのだろうか。それとも……。
 あいつは変なことをいった。ドアの外にレンガが積んであったといった。それはどういう意味なのだ。飢え死によりも、もっと恐ろしいことではないのか。
 ああ、残念だ。ピストルさえあったらなあ。たまをドアの錠にぶちこめば、わけなくひらくのだが、せめてナイフでもあれば、錠を破ることができるかもしれないのだが、それさえ持っていない。
 昌吉はまたいらいらと立ち上がって、へやのまわりをぐるぐる歩いた。そして、けばけばしい花模様の壁紙をたたきまわった。壁紙が何かを隠しているかもしれない。もしや、その下に、秘密の出入り口でもあるのではないかというそら頼みからだ。
 その壁紙はひどく不完全なはり方なので、たたいたり、ひっかいたりしているうちに、その一カ所が破れた。紙の下には白い壁があった。その表面に縦横に傷がついている。そのよごれを隠すために、壁紙をはったのかもしれない。
「おやッ!」
 昌吉は、壁紙の破れた個所を見つめた。縦横のかき傷は、落書きの文字であることがわかった。
「ここは人殺しの」
 と読まれた。だれかがつめで壁に字を書いておいたのだ。昌吉は急いで壁紙をもっと大きくはがしてみた。そこにはこんな恐ろしいことばが彫りつけてあった。
 ここは人殺しのへやだ。おれはこれほどの恨みをうける覚えはない。あいつはおれを人殺し会社の手に渡した。おれはいま殺されようとしているのだ。
 このへやには先客があったのだ。そして、苦しまぎれに、こんな落書きを残していったのだ。まだほかにも書いてあるかもしれない。昌吉は手当たりしだいに壁紙をはがしはじめた。すると、あった、あった。また別のことばが彫りつけてあった。
 ドアのそとに妙な音がしている。もう一時間もつづいている。恐ろしい。人殺しの専門家が、おれを殺す準備に忙殺されているのだ。ドアの外へレンガを積んで、コンクリートでかためているのだ。あれが完成したら、このへやは完全に密閉される。空気が通わなくなる。おれは飢え死にかと思っていたが、窒息だった。人殺しのやつは、おれを窒息させるつもりなんだ。
 ああ、そうだったのか。レンガ積みは、そういう意味だったのか。昌吉は急いでドアの前に行って、耳をすました。まだ聞こえない。レンガ積みの作業は、まだはじまっていない。だが、やがてはじまるのだ。そして、ふたりは、この先客と同じ運命におちいるのだ。
 そうとわかると、もっと落書きが見たかった。まだ書いてあるにちがいない。また壁紙破りをつづけた。美与子も、さっきの落書きを読んでいた。そして、昌吉といっしょになって、壁紙を破りはじめた。のりがよくついていないので、はがすのはわけもなかった。
「ここ、ここ!」
 美与子が指さすところを見ると、また別の文字があった。
 ガラス窓から、あいつがのぞいた。今までは人殺し会社のやつだったが、レンガ積みが終わって、いよいよおれの最期が近づくと、とうとう、あいつが顔を出した。おれを殺させようとしている張本人だ。ふくしゅうにひんまがった醜悪な顔。人間の顔が、あんなにもみにくくなるものだろうか。
 その横手をはがすと、つづきのことばがあった。二人は顔をくっつけるようにして、息もつかず、それを読んだ。
 あいつの恨みのありったけを並べやあがった。そして、最後に恐ろしい宣告をした。ガスだ。毒ガスだ。おれはあさはかにも、一度は餓死を想像し、二度めには窒息を想像したが、やつの刑罰はそんななまやさしいものではなかった。このへやのどこかに、毒ガスの吹き出す口があるのだ。あいつは、その毒ガスの中で、おれが気ちがい踊りを踊るのを、ガラス窓から見物してやるとぬかしゃあがった。道理で、このへやには、電灯がついているのだ。おれのためじゃない。外からのぞいて楽しむためなんだ。
 ふたりは手の届くかぎり、四方の壁紙を破った。壁という壁がぼろでおおわれたような醜い姿になった。ふたりは壁に顔をつけるようにして、落書きを捜しまわった。
 ああ、ここにもあった。つめ書きの文字は、ひどく乱れて読みにくくなっていた。
 ああ、音がする。シューシューと、かすかな音がする。ガスが漏れているのだ。へやのすみの床に近いところに鉛管がひらいている。そこから黄色い毒煙が吹き出しているのだ。それがヘビのように床をはって、おれのほうへ近づいてくる。ああ、もう逃げられない。黄色いヘビが、足をはい上がる。
「ここよ、ここよ」
 美与子が、泣き声で叫んだ。そこには、見るもむざんなたどたどしい字で、断末魔の一句がしるしてあった。
 もうだめだ。黄色い煙は、へやいっぱいになってしまった。苦しい。くるしい。たすけてくれ。
 その最後の行は、もうほとんど文字の形をなしていなかった。もがき苦しむつめのあとにすぎなかった。
 昌吉と美与子は、ひしと抱き合って、へやのすみに立っていた。そして、どんなかすかな音も聞きもらすまいと、耳をすましていた。いまにもドアのそとに、レンガ積みの作業がはじまるのではないかと思うと、生きたそらもないのだ。
 そのとき、どこかで音がした。ドアの外らしい。コツコツとつづいている。ああ、いよいよレンガ積みがはじまったのであろうか。
 だが、そうではなかった。スーッとドアがひらいた。何者かがはいってきた。それはさっき、ふたりをここに運んできた自動車の運転手であった。大きな新聞紙の包みをこわきにかかえていた。
 かれはニヤニヤ笑いながら、無言のまま、ふたりのほうへ近よってきた。こちらはいっそうひしと抱き合って、じりじりとへやのすみへ、あとじさりしていくばかりだった。

消えうせたへや


 それから少したって、へやの外ではレンガ積み作業がはじまっていた。さっきの運転手が、上着を脱いで、ミックスしたセメントをコテですくいながら、一つ一つレンガを積み上げていた。
「やあ、ご苦労、ご苦労、なかなかはかどったね。うまいもんだ。レンガ職人をやったことでもあるのかい」
 殺人請負会社の専務取締役、小男の須原がちょこちょことやって来て、声をかけた。
「ヘヘヘヘヘ、ご冗談でしょう。こう見えたって、子どもからのやくざですよ。レンガなんかいじくるのは、今がはじめてですよ。しかし、人のやっているのを見たことはある。見よう見まねってやつですね」
 この運転手は、須原の手下の斎木という男であった。よほど信任を得ているらしい。
「おれもてつだうよ。きみはコテのほうをやってくれ。おれはレンガを並べるから」
「オッケー」
 職人がふたりになると、みるみる仕事がはかどっていった。
「だが、中のやつら、どうしてる。ばかに静かじゃないか」
「さっき専務さんがのぞいたあとでね、やつら、すっかり壁紙をはがして、あれを読んじゃったんですよ。まるで幽霊みたいな顔してましたぜ。ふたりが抱き合って、すみっこにうずくまってまさあ」
「壁の落書きというやつは、なかなかききめがあるね。やつら、耳をすましてレンガ積みの音を聞いてるだろうな。落書きでちゃんと暗示があたえてあるんだから、まさか聞き漏らすことはあるまい」
「ウフフ、地獄ですねえ。ネズミとりにかかったネズミみたいに、心臓をドキドキさせてるこってしょう。ですが、専務さん、依頼者はもう来ているんですかい?」
「うん、さっきから応接間に来ている。今までぼくが応対していたんだ。これができ上がったら呼ぶつもりだよ」
「ずいぶん執念深いもんですねえ。だが、ああいうお客がなくちゃ、会社の経営はなりたちませんからね」
 かれらは、室内には聞き取れぬほどの小声で、ボソボソ話し合いながら、せっせと仕事をつづけていたが、まもなくドアの部分のくぼみがレンガでいっぱいになった。あとは外側に、廊下の壁と同じ漆喰しっくいを塗ればよいのだ。
「じゃ、きみ、漆喰のほうをはじめてくれ。ぼくは依頼者を呼んでくるからね」
 小男の須原は、そう言いのこして、廊下の向こうへ立ち去ったが、やがて、依頼者川波良斎と肩を並べてもどってきた。
「いよいよ密閉されました。まるで金庫の中へ閉じこめたようなもんですよ」
「で、そののぞき窓というのはどれです」
「このキャタツにおのりください。ほら、あの窓です。ふたを上にひらくと、中に厚いガラスがはめこんであります。八分も厚みのある防弾ガラスですから、中からピストルをうっても、突きぬけるようなことはありません。少しも危険はありませんよ」
 気ちがい良斎は、舌なめずりをしてキャタツの上にのぼり、窓のふたをひらいて、中をのぞきこんだ。
「おやッ、だれもいないようだが」
 ちょっと見たのでは無人のへやのようであったが、あちこち視線を動かしていると、
「アッ、いる、いる。こちら側の壁にもたれてうずくまっているので、顔が見えない。服のすそと足が見えてるばかりだ……おいッ、美与子、篠田、わしの声がわかるか」
 だが、へやの中のふたりは、何も答えなかった。壁の落書きで、こういうことが起こるのをちゃんと予知していたので、いまさら驚くこともないのだ。
「おい、おまえたち、ドアの外にレンガの壁ができたのを知ってるだろうな。ここは気密のへやになったのだぞ。だから、ほうっておいても窒息するのだが、それではお待ちどおだ。ガスだよ。黄色い毒ガスが、このへやいっぱいになる。その中で、おまえたちはもだえ死ぬのだ。これも自業自得というものだぞ。わしの恨みのほどがわかったか。どうだ。ワハハハハハ、ふるえているな。ほら、耳をすまして、よく聞くがいい。どこかでシューシューという音がするだろう。鉛管から毒ガスが吹き出しているのだ。おまえたち、いくら強情にだまりこんでいても、いまにみろ、毒ガスの苦しさに、気ちがい踊りを踊るのだ……さあ、ガスを、ガスを」
 と、須原を見おろして催促する。
「もうネジをあけました。ガスは吹き出していますよ」
「そうか。もう吹き出しているのか。うん、うん、黄色い毒蛇どくじゃが床をはいだした。美与子、こわいか。今こそおまえの断末魔だぞ。ウフフフフフ、ブルブルふるえているな。ざまあ見ろ、いくら篠田にとりすがったって、そいつはおまえを助ける力なんぞありゃしない。わあ、ガラスの前まで黄色い煙がはい上がってきたぞ。もうへやの中は毒ガスでいっぱいだ。はっきり見えなくなった。美与子、篠田、どこにいるんだ。気ちがい踊りをはじめたか。アッ、ちらちら見える。踊っている。踊っている。ワハハハハハ、わしは二度ふくしゅうをとげたんだぞ。一度は土の中にうずめて獄門のさらし首にしてやった。こんどは黄色い毒蛇だ。ガスの中の気ちがい踊りだ。速水とかいうやつのおかげで、わしは二度の楽しみを味わったというもんだ。ワハハハハハ、ワハハハハハ」
 あやうくキャタツの上からころがり落ちそうになった。須原がすばやく駆けよって、助けおろした。
「わが社の仕事ぶりがわかりましたか。まずこういったぐあいです。ごらんなさい。ドアの前のレンガは、すっかり漆喰で塗りつぶされました。これがかわけば、廊下の壁と見わけがつかなくなるのです」
 須原は得意らしく、そこを指さした。運転手が、やっと仕上げのコテを置いたところである。
「あとは、あの窓を塗りつぶすだけです。きみ、すぐに窓のほうにかかってくれたまえ」
 いわれて運転手は、漆喰のバケツとコテを持って、今まで良斎が使っていたキャタツの上へのぼっていく。
「どうです。ふたりの死骸しがいだけでなく、へやそのものを抹殺まっさつしてしまうのです。この建物の中から、一つのへやが消えうせてしまうのです。これがわれわれのやり口です。思いきってずばぬけた着想、これが最も安全な道です。びくびくして、こまかいことを考えていたら、かえって失敗します。つまり、世間の意表を突くというやつですね。
「この計画のために、わたしはこの家全体を買い入れたのです。そして、今後はけっして人に売ったり貸したりはしません。わたしの別宅として使うのです。ですから、この消えうせたへやの秘密は、永久に保たれるわけですよ。
 それから、ご安心のために、もう一つ説明しておきますが、きょうの仕事は、わたしと、この運転手をつとめた男と、ふたりだけでやったのです。われわれの会社には、わたしのほかにふたりの重役がおりますが、ひとりは女ですし、こういう仕事には不向きなのです。むろん、きょうの仕事は知らせてあります。しかし、直接関係はしなかったのです。人間関係としても、この秘密はけっして漏れることはありません。
 この男ですか? むろん、運転手が専門じゃありません。わが社創立当時からの幹部社員です。斎木というのですが、曲馬団出身の冒険児で、わたしの第一の腹心です。一生めんどうをみてやるつもりです。斎木のほうでも、わたしからは生涯しょうがいはなれないといっております。ですから、もしこの事件がばれるとすれば、川波さん、あなたの口からですよ。くれぐれも注意してください。お互いのいのちにかかわることですからね」
 須原の長い説明がすむと、良斎は感にたえて、
「ふうん、おそれいった。さすがはその道の専門家だね。死骸を隠すために一軒の邸宅を買い入れて、その中の一室を消してしまうとは、思いきった手段だ。ずいぶん資本もかかるわけだね。しかし、まだひとり残ってますぞ。速水とかいう怪人物だ。あれはきょうのふたりとはちがって、よほど手ごわいだろうからね」
「手ごわいだけにおもしろいですよ。いよいよ次はあいつの番です。まあ、見ていてください。斬新ざんしんな手口をお目にかけますよ……ごらんなさい。これでもう、あとかたもなく、一つのへやが消えうせました」
 斎木という男は、もうすっかり窓を塗りつぶして、キャタツを降りてきた。ドアものぞき窓も消えて、そこには廊下の壁があるばかりだった。
「建物の中のへやべやの内のりを計って合計した長さを、建物の外側の長さから引くと、壁の厚さの合計が出ます。それを壁の数で割れば、平均の壁の厚さが出るわけです。この建物をそうして計算してみますと、壁の厚さの平均がおそろしく厚いものになるでしょう。なぜといって、いま塗りつぶしたこのへやが、やはり壁として計算されるからです。これが昔から秘密のへやを捜し出す手段なのです。わたしはそれをよく知っています。ですから、そういう計算をするような人間は、けっしてこの家に入れませんよ。しっかりした執事を置いて、わたしのるす中もまちがいのないように計らいます。その点は、わたしをお信じください」
 こうして、川波良斎はその目的を達し、満足して引き揚げていった。

海上の密談


 影男は小説家佐川春泥として小説執筆のための風変わりな書斎を建築したばかりであった。影男は東京にも地方にも多くの家を持っていたが、世田谷せたがや区の蘆花ろか公園の近くにも、樹木の多い広い地所と、隠居所ふうのささやかな日本建ての家があった。その庭の林の中に、十坪ほどの赤レンガの書斎を建てた。
 とんがり帽子のようなスレートぶきの屋根もでき上がり、完成もまぢかに見えた。青々とした大樹にとりかこまれた奇妙な赤レンガの建物は、いかにもうつりがよくて、大昔の西洋の風景画を見るような感じだった。
 影男の佐川春泥は、厚手のしまセビロに、十九世紀のフランスの詩人がつけていたように大型のリボンのような黒いちょうネクタイを、胸にフワフワとさせていた。
 かれはでき上がった書斎の家具などをさも楽しそうに見まわったあとで、おもやの玄関前に置いてあった自動車を、自分で運転して、遠く隅田川すみだがわの河口に向かった。
 午後二時ごろ、霊岸島の魚仙ぎょせんという舟宿に着いた。座敷に通ると、そこに約束しておいた殺人会社専務の須原正すはらただしが待っていた。ちょっと一口やってから、ボートを頼んだ。船頭を雇うのはぐあいがわるいし、ふたりとも和船はこげなかったので、ボートを借り出してもらったのだ。
 影男は、殺人会社の仕事はもうごめんだと思っていたが、須原から執拗しつように呼び出しの手紙が来た。影男の本拠の一つであるアパートへ数回手紙が来て、るす中の机の上に積み上げてあった。
 影男はある理由から、それに応じることにした。極秘の話だというので、電話で打ち合わせて、海の上で話し合うことにした。
 小男の須原は、力がないので、影男のほうがオールをあやつって、ボートをお台場のほうに向けた。
「遠くへ行くこともない。このへんでいいでしょう」
 影男はオールを横にして、こぐのをやめた。ボートは波のまにまに漂っている。天気がよく、風がないので、海は湖水のように静かだ。はるかに数隻のつり舟が見えるくらいのもので、かれらは広い海面にたったふたりぽっちだった。
「いつかは観覧車の空の上で密談しましたが、あれよりもこのほうがいっそう安全ですね。海上の密談とはいい思いつきだ」
 小男の須原が、はればれとしたあたりを見まわしながら、ニヤニヤしていった。
「そのかわり、命のやりとりにも絶好の場所ですね。須原さん、あなた泳ぎができますか?」
 影男の佐川春泥が、これもニヤニヤして、気味のわるいことをいいだした。
「できますとも、三里ぐらいは平気ですよ。あなたは?」
「青年時代に東京湾を横断したことがあります。すると、お互いに溺死できしさせられる心配は、まずないわけですね?」
「次に凶器ですか?」
「そう。なにかお持ちですか」
「これを持ってますよ」
 小男はそういって、ポケットから黒っぽい小型のピストルを出して、手のひらの上でひょいひょいと躍らせて見せた。そして、またニヤリとする。
「ウフフ、お互いに護身の道具は忘れませんねえ。実は、ぼくも持っているのですよ」
 影男もポケットからそれを出して見せた。まったく同形のコルトである。
「ふふん、さすがですね。二五口径のコルトでしょう。すっかり同じだ。握りに馬のはねてる模様が浮き彫りになってますね。どれ、見せてごらんなさい」
 お互いに取り替えっこをして、見比べたが、すっかり同じ型のピストルであることがわかった。
「というわけですな」
 影男も笑い返した。
「そこで、凶器でも五分五分というわけですね」
「実に公平です。撃ち合えば、どちらが早く火を吹くかだが、すばやさではひけはとりませんよ」
「では、こんなものは、ポケットに収めておきましょう。きょうは決闘をやりに来たのではありませんからね」
 ふたりはお互いのピストルを取り返して、もとのポケットに入れた。
「ところで、きょうは、また一つ、あなたの知恵が借りたいのですがね。このまえの『底なし沼』のトリックは実にすばらしかった。もう一度だけ、ああいうのを考えていただきたいのですよ」
 小男の須原が、ごきげんとりのねこなで声でいった。
「それはわかってますよ。そのほかに用事があるはずはない。しかしね、ぼくはこのまえの底なし沼で懲りたのです。あまり残酷で、どうもあと味がわるい。それで、実はあなたがたから逃げていたのですが、こんどは、ちょっと相談に乗ってみようかなという気が起こった。ちょっと訳があってね」
 影男もあいそがよかった。
「では、さっそく用件にとりかかりますがね。ある富豪から、ひとりの青年紳士をやっつけてくれと頼まれたのです。これには相当の報酬が出ます。ですから、あなたの立案料も、こんどは五百万円まで奮発しますよ。そのかわり、会社のほうへ絶対に疑いのかからないような、とびきりの名案をひとつ考えていただきたいのです」
 ボートはゆらゆらと快適に揺れていた。風はなく、空は青々と晴れて、暖かい陽光がさんさんと降りそそいでいた。そのボートの中のふたりは、にこやかに笑いかわしながら、のんびりと、とりとめもない世間話でもしているように見えた。
「よろしい。取っておきの名案をさし上げましょう。それにしても、立案料が五百万とは奮発しましたね。あなたの受け取る報酬はその何倍ですか」
 影男が、やっぱり笑いながら、皮肉にいった。
「どういたしまして、せいぜい二倍ですよ。こんどの件は、相手がしたたかものなので、よほど慎重にやらないとあぶないのです。だから、立案料に半分出そうというわけです」
 須原はぬけぬけとうそをついた。読者も知るように、川波良斎への要求額は二千万円であった。つまり、影男を抹殺まっさつする代金が二千万円だった。なんということだ。このずぶとい小男は、これから殺そうと思っている当人に、その殺人方法を立案させようというわけなのである。
 あぶない、あぶない。さすがの影男も、そこまでは気がつくまい。いくらなんでも、自分を殺そうとしているやつが、その殺し方を自分に教わりに来るとは、考えも及ばないであろう。
「あなたは今、取っておきの名案があるとおっしゃいましたね。それをひとつご伝授願いたい。さだめし、すばらしい名案でしょうな」
 小男は両手をこすり合わせて、舌なめずりをした。
「ぼくの名案というのは、密室ですよ」
「え、密室?」
探偵たんてい小説のほうで有名な、あの秘密の殺人というやつです」
「ふん、ふん、わかります。わかります。それで?」
「つまり、そのへやの内部から完全な締まりができていて、犯人の逃げ出すすきまが絶対にない。それにもかかわらず、そのへやには、被害者の死体だけが残されて、犯人の姿は見えないというやつですね。古来いろいろな犯人が、この密室の新手を考えた。百種に近い方法がある。しかし、ぼくの秘蔵しているのは、いまだかつてだれも考えたことのない新手です。五百万円では安いもんだ。しかし、教えてあげますよ。なんとなく、あんたが好きになったからだ」
「ありがとう、ありがとう。ぜひ、教えてください。恩に着ますよ」
 小男の顔が、まるで好々爺こうこうやのようにみくずれた。
「それにはね、ちょうど今、ぼくはレンガ建ての書斎を建てている。これがもう二、三日でできる。それを提供しますよ。むろん、一時お貸しするだけだが、殺人の現場となっては、あとは使えない。この建築費が三百万円かかっている。これは実費として別途支出ですよ。いいでしょうね」
「三百万円! すると、合わせて八百万円のお礼ということになりますね。それはちと高い。もっと安い建物はありませんか」
「アハハハハハ、家を買う話じゃない。そのぼくの書斎でなければ、うまくいかないのです。説明すればすぐわかるんだが、まず報酬をさきにもらわなくてはね。ぼくの売り物は形のない知恵なんだから、それをさきに話してしまっては、取り引きにならない。きょうでなくてもよろしい。報酬の用意をしていただきたい」
「それはもう、ちゃんと用意しております。あなたがそういわれることは、わかっていましたのでね。しかし、こちらは五百万ときめていたのだから、それだけの小切手しかありませんが」
 小男はそういいながら、内ポケットから大きな札入れを出して、一枚の小切手を抜き出した。
「これです。ぼくの振り出しじゃありません。大銀行から都内の支店あての小切手だから、まちがいのあろうはずはない。とりあえずこれだけお渡ししますから、その名案というやつを聞かせてください。残金の三百万は、実行に着手するまえに必ずお払いしますよ」
 影男はその小切手を受け取って、ちょっと調べてから、内ポケットに収めた。
「よろしい。あんたを信用して、伝授することにしましょう。断わっておくが、密室というものの利点はですね、情況判断からして、どんなに疑わしい人物があっても、それを処罰することができない。密室のなぞが解けるまではどうすることもできないという点にある。だから、絶対に解くことのできない密室さえ構成すれば、それは完全犯罪になるのです。わかりましたか。しかも、ぼくの考えているやつは、犯罪史上にまったく類のない新手で、絶対に解けない密室なのです。それはね、こういう方法なのです……」
 影男はそれから二十分ほど話しつづけた。
 小男須原はそれを謹聴していたが、すっかり聞き終わると、はたとひざをたたいて、「ふうん、なるほど、考えましたね。いかにも斬新ざんしんきばつの名トリックですよ。これなら、どんな名探偵だって、わかりっこありませんよ。ありがとう。ところで、それはいつ実行しますかな」
「もう建物はでき上がっているんです。早いほうがよろしい」
「で、そのあなたのレンガ建ての書斎はどこにあるのです」
世田谷せたがや区のはずれの蘆花ろか公園のそばですよ」
「一度、下検分をしておきたいものですね」
「よろしい。それでは明後日の夜八時ごろがいいな。世田谷のぼくのうちをたずねてください。そのころには、書斎の家具などもはいっているでしょう」
 といって、自宅への道順を教えた。
「では、そういうことにしましょう。いや、おかげで、わしも安心しました。やっぱり、あんたの知恵袋はたいしたもんだ。そういう名案があろうとは思わなかったですよ」
 須原はほめ上げながら、心中ではペロリと舌を出していた。この男は、自分が殺されるのも知らないで、完全犯罪の手段を教えてくれた。さすがの知恵者もいっぱい食ったな。おれのほうが役者が一枚上だわいと、ほくそえんでいた。
 須原はすでに篠田昌吉と川波美与子を毒煙で倒して、その死体を小べやの中に塗りこめてしまっていた。このほうは首尾よく目的を果たした。残る影男は、とても手におえまいと思ったが、逆手を用いて、犠牲者自身に殺人方法の知恵を借りてみたら、その意表外の度胸がまんまと成功して、相手は少しもそれに気がつかず、うまい方法を教えてくれた。やっこさんも存外あまいもんだな。
 須原は小さなからだがはちきれるほどの自信で、その日はひとまず帰ることにした。ボートを舟宿にもどして、また一杯やったあとで、明後日を約して別れた。
 影男はこの小男のために、うまくしてやられたのであろうか。裏には裏のあるくせ者どうし、影男のほうにだって、どんな秘策が用意されていまいものでもない。この悪知恵比べ、最後の勝利を得るものは、両者のいずれであろうか。

おまえが被害者だ


 それから二日後の午後八時、須原は約束どおり、蘆花公園に近い影男の隠れ家をたずねた。影男はおもやの日本間のほうへ須原を上げて、ちゃぶ台の上に出してあったウイスキーを勧めた。玄関へも主人みずから出迎えた。いつまでたっても、女中も書生も現われない。うちじゅうがシーンと静まり返って、まるであき家にでもいるような感じだ。
「だれもいないのですか」
 ついきいてみないではいられなかった。
「ぼくがここに滞在するときには、召し使いを連れてくるのですが、今夜はそういう者もいないほうがいいと思ったので、ぼくひとりでやって来て、きみを待っていたのですよ」
 ふたりはウイスキーをチビチビやりながら、しばらく話したあとで、いよいよ庭のレンガ造りの書斎を検分することになった。
「このあいだのお話で、理屈はよくわかっているのだが、やっぱり実地に当たって見ておきませんとね」
 小男の須原はそういって立ち上がった。
 ふたりは懐中電灯を持って、まっくらな庭へ出ていった。林のような木立ちの中を歩いて、その奥にある奇妙なレンガ建てに近づいた。
 それから三十分ほど、影男は建物の内外を歩きまわって、詳しく説明した。
「よくわかりましたよ。実にきばつなトリックだ。これならだいじょうぶです。きっとうまくやってみせますよ」
 須原はいっさいを了解して、ほくほくしている。
 検分をすませると、もう九時になっていた。ふたりはうっそうと茂った林の中を、おもやのほうへ引っ返しはじめた。あたり一帯は寂しい場所なので、街灯は遠くに立っているばかりだし、なんの光もなく、自動車の警笛も聞こえず、まるで山の中でも歩いているような気持ちだった。
「なんだか変だな。今まで、ぼくはそれを一度も聞いていない」
 影男の佐川春泥が、何か思い出したようにつぶやくのが聞こえた。
「え、なんです。なんとおっしゃった?」
「その人は、いったい、どういう人物なんだね」
「その人って?」
「きみの会社が依頼されている人物、つまり殺される人物さ」
「ああ、そのことですか。わしもいうのを忘れてましたがね、実に恐ろしい相手です。悪知恵にかけては、まず天下無敵でしょうね。その男は、いくつも名まえを持ってましてね、まるで想像もつかないような別人に化けて、悪事を働いている。まあ悪質なゆすりですね。不正な金もうけがうまいこと驚くばかりです。それに、実にすばしっこくてね、まだ一度もつかまったことがないというやつです。あんた、そいつは小説家にさえ化けるんですよ」
 小男の須原は、やみの中でクスクス笑った。
「なんだって? それじゃ、まるでぼくとそっくりじゃないか」
 影男は、びっくりしたように立ち止まった。
「そういえば、なるほど、そっくりですね。不思議なこともあるもんだ」
「で、名まえはなんというんだ」
「いろんな名があるんですよ。速水荘吉、綿貫清二……それから佐川春泥……」
 それを聞くと、影男がパッと飛びのいて身構えをした。
「それが、きみが殺そうとしている男か」
「そうですよ。こんどの事件の被害者というのは、おまえさんなのさ」
 いうかと思うと、須原はポケットからピストルを出して構えていた。
「おいッ、おれを殺すと後悔するぞッ、恐ろしいことがおこるぞッ」
 影男はじりじりとあとずさりしながら、しかりつけるように叫んだ。
「ワハハハ、おどかしたってだめだよ。おまえさん、自分が殺されるとも知らないで、おれに完全犯罪のやり方を教えてくれたじゃないか。おれのたくらみを、少しも気づかなかったじゃないか。なんの用意ができているものか。さあ、覚悟しろッ」
 空気を裂くような鋭い音がしたかと思うと、影男のからだが、地上にどっと倒れていた。
 須原はピストルを構えたまま、じっと見ていたが、影男は少しも動かない。一発で息が絶えたのであろうか。
 須原は懐中電灯を点じて、死体に近づいていったが、電灯の丸い光があおむきに倒れた影男の顔を照らすと、思わず、「ウーッ」とうなって、あとずさりした。ピストルのたまは顔面に当たって、顔一面がどろどろした赤い液体でおおわれていたからだ。
 しばらくためらっていたが、光を顔に当てないようにして、また近づいていった。そして、死体のそばにしゃがんで、胸に手を当ててみた。鼓動はとまっていた。念のために右の手くびをおさえてみたが、そこにも脈はまったくなかった。
「あっけないもんだなあ。さすがの悪党も、これでお陀仏だぶつか。ウフフフ、じゃあ、これからきみのおさしずに従って、絶対に処罰されない手段にとりかかることにするよ」
 須原は死体はそのままにしておいて、おもやに引き返し、どこかへ電話をかけた。そして、勝手元から一枚のござを捜し出すと、それを持って、林の中へはいっていった。死体を動かすまでそれをかぶせて、おおい隠しておくためである。
 それから十分ほどして、ひとりの男がおもやの玄関へはいってきた。殺人会社の重役のひとりが、近くに待機して、須原の電話を待っていたのだ。その男は四十ぐらいの、やせて背の高い男で、わざと労働者のような服装をしていた。
 須原はその男を出迎えて、しばらくささやき合ったあとで、ふたりづれで、まっくらな庭の林の中へ消えていった。密室構成の仕事をはじめるためだ。それから、ふたりはレンガ建ての書斎のあたりで、夜明け近くまで、何かゴトゴトと、しきりに働いていた。

密室のなぞ


 須原が影男を射殺した翌々日の昼ごろ、京王電車の蘆花公園駅に近い交番へ、妙なじいさんが駆けこんできた。
「たいへんです。わしの主人が殺されました」
 日に焼けたしわだらけの顔に、白い口ひげとあごひげをはやしている。服は二、三十年まえに流行したような、つんつるてんの黒いセビロ。よごれたワイシャツは着ているが、ネクタイもしていない。子どものように小がらな、しなびたようなじいさんだ。
 交番の警官は、じいさんの姿をじろじろ見ながら、疑わしそうに聞き返した。
「殺されたって、どこでだ。そして、きみの主人というのは、いったいどこのだれなんだ」
「主人は烏山からすやま××番地の佐川春泥しゅんでいという小説家です。わしは、そこに長年使われている谷口というものです。主人は変わりもので、庭の林の中に、レンガ建ての書斎を造って、その中で仕事を始めたんじゃが、それが、おとといから、書斎を出てこんのです。
 主人は、今もいうとおり変わりものじゃから、書斎へはいったら、飯も食わんで、一日じゅう閉じこもっていることがよくある。そこで、わしもきのう一日はほうっておいたが、けさになっても出てこん。十時になっても、十一時になっても出てこん。これはどうも変だと思ったので、書斎の裏の窓にはしごをかけてのぞいてみた。すると、どうじゃ、主人はじゅうたんの上にぶっ倒れている。うつぶせに倒れているんじゃが、その顔に血が流れている様子じゃ。いつまで見ていても、身動きもせん、死んでいますのじゃ。
 わしは書斎の中へはいって確かめようと思った。ところが、入り口のドアに中からカギがかかっている。がんじょうな戸じゃから、ぶちやぶることもでけん。窓はたった一つしかなくて、それには鉄ごうしがはまっている。わしの力ではどうにもなりませんのじゃ。急いで見に来てください」
 じいさんの説明を聞くと、交番の警官も、もう疑わなかった。すぐに電話で本署に連絡しておいて、じいさんといっしょに現場に駆けつける。少しおくれて、所轄警察の署長みずから数名の係官をつれて、自動車でやって来た。
 広い庭の林のような木立ちにかこまれて、古風なレンガ建てがぽつんと立っていた。とんがり帽子のようなスレートぶきの屋根、窓というものがたった一つしかなく、それに鉄ごうしがはめてある。まるで牢獄ろうごくのような不思議な建物だ。広さは十坪ぐらいであろうか。
 正面のたった一つの出入り口のドアには中からカギがかかっているので、署長や係官も、じいさんが裏側の高い窓にかけておいたはしごをのぼって、その窓から内部をのぞいてみた。じいさんのいうとおり、ひとりの男がうつぶせに倒れている。そのかっこうが、死んでいるとしか思えない。
 窓から正面のドアを見ると、これはまたなんという厳重な戸締まりであろう。内側に幅の広い鉄のかんぬきががっしりとかかっている。これでは合いカギがあったとしても、とてもドアをひらくことはできない。
 窓の鉄ごうしを破ったほうが早いかもしれぬと、よく調べてみたが、これがまたひどくがんじょうにできていて、どうすることもできない。また正面の入り口の前にもどって、警官たちが体当たりでドアを破ろうとしてみたが、これもまったく見込みがないことがわかった。厚い板戸で、要所要所には鉄板がうちつけてある。
「まだ建ってまもないようだね」
 署長が谷口じいさんに尋ねる。
「はい、まだ使いはじめてから三、四日にしかなりません。それに、もうこんなことが起こるというのは、方角がわるかったのじゃ。わしがいくらとめても、主人は耳にもかけず、とうとう建ててしまった。見るがいい。案の定、この始末じゃ」
 じいさんはぶつくさと無遠慮にこぼしてみせる。
「きみはここの主人に長く使われているのかね」
「はい、十年の余になります。わしの主人は不思議な人で、いくつも名を持っておりましてね、住まいもほうぼうにあるのです」
「主人の職業は?」
「それが、わしにもとんとわかりませんのじゃ。まあ、お金持ちのぼっちゃんですからね。ずいぶんぜいたくな暮らしをして、遊びまわっている。そうかと思うと、何か書きものをするとみえて、そのためにこんな書斎を建てましたのじゃ」
「ふん、よほど変わった人だね。この建物だってそうだ。窓はあんな小さいのが一つしかなくて、へやの中はまっくらだし、入り口のドアのこの厳重な締まりはどうだ。いったい、どういうわけで、こんな用心をするのだ。この中には、何かよほどだいじなものでも置いてあるのかね」
「わしもよくは知らんが、だいじなものなんて、何もありゃしない。本が少しばかり置いてあるだけです。この戸締まりを厳重にしたのは、そういうことではない。主人は勉強しているときにだれかがはいってくるのが、おそろしくきらいじゃった。だから、カギをかけただけでは気がすまないので、でっかいかんぬきまでつけさせたのです。わしには主人の気持ちはわかりません。何かをこわがっていたようでもある。主人には敵が多かったらしいからね。いや、わしは知らんが、主人がときどきそんなことをいっていた。敵が多いから用心しなくちゃ、とね」
「窓の鉄ごうしも、そのためにとりつけたというわけだね」
「そんなこってしょう」
 じいさんはそれ以上何も知らなかったので、ともかくドアを破って室内を調べることにした。
 署長は部下に命じて仕事師を呼んでこさせた。若い仕事師は、大きな掛け矢をかついでやって来た。この掛け矢でドアがこわされ、署長たちは室内を調べることができた。
 被害者はピストルで顔面をやられ、顔じゅうがまっかに染まっていた。死体は動かさないで、室内がくまなく調べられた。ドアのカギは中からかけられ、かんぬきも完全にかかっていた。カギは机の上に置いてあった。ただ一つの窓の縦横に組んだ鉄棒は、深く窓わくのコンクリートの中にはめこんであって、少しの異常も認められなかった。鉄ごうしの内側にガラス戸が密閉され、掛け金がかかっていた。壁は厚いレンガ積みで、室内の側には漆喰しっくいが塗られ、ナラの腰板がうちつけてあった。天井にも床にも、怪しむべき個所はまったくなかった。完全無欠の密室である。
 そうしているところへ、本署から通報をうけた警視庁の捜査課と鑑識課の人たちが自動車で到着した。
 室内の再調べが行なわれ、室内外の写真がとられた。鑑識課の医員が被害者を検診したうえ、ひとまずおもやのほうへ運んだ。
 被害者はピストルでやられているのに、室内にはそのピストルが発見されず、室外からピストルを打ちこむ可能性もまったくなかった。唯一の窓にはガラス戸が密閉され、そのガラスにはなんの傷あともないのだ。すると、犯人は室内で被害者を撃ったと考えるほかはないのだが、その犯人はどこから出ていったのか。そういうすきまはどこにもなかった。
 鑑識課の係員は、密室構成の知識を持っていた。ドアのカギ穴を通して行なわれる種々のトリックにも通暁していた。ところが、調べてみると、この建物のドアには、そういうトリックを行なうことが、絶対にできないことがわかってきた。
 普通のドアは、外側からも同じカギで開閉できるように、カギ穴はドアを貫通しているものだが、ここのドアは特別の構造になっていた。内側からのカギ穴と外側からのカギ穴が、別々にできていて、両方ともドアを貫通せず、先の方がふさがっていた。カギそのものも、内側のと外側のとまったく形がちがっていた。これは変わり者の被害者が、合いカギで外からかってにドアをあけられることを恐れたのと、もう一つは、カギ穴からのぞかれるのを防ぐために、こういう内外別々のカギ穴という構造を考えついたものであろう。
 ドアのトリックは、カギ穴ばかりでなく、ドアの下部のすきまがなくてはできないのだが、ここのドアにはそういうすきまもなかった。ドアの上下左右とも、ぴったり外わくに食いこむようにできていて、細い絹糸を通すほどのすきまさえないのだ。
 人々はただ顔見合わせるばかりだった。いくら考えても、この密室のなぞを解くことはできなかった。そこで、ともかく被害者を病院に送って解剖することにした。致命傷は顔面から頭部の貫通銃創とわかっていても、こういう異様な事件では、いちおう解剖の手続きをする慣例であった。
 やがて、救急車が呼ばれ、死体が運び出されたが、それとひきちがいに、ひとりの妙な男が、一同の集まっている庭のほうへ、のこのことはいってきた。めがねをかけ、濃い口ひげのある三十五、六歳のりっぱな紳士だ。被害者の友人が、何も知らないでたずねてきたのかもしれないと思ったので、ひとりの警官が、そのほうに近づいて声をかけた。
「どなたですか。今、重大な事件がおこって、ごらんのとおり、とりこんでいるのですが」
「わたしはこの近所に住んでいる松下東作というものです。職業は弁護士です。ここのご主人とは知り合いでもなんでもありません。実はさっき、作蔵という出入りの仕事師が、わしのうちへやって来て、殺人事件のことを話していったのです。あなたがたに頼まれて、掛け矢でドアを破ったあの男ですよ。あれの話によると、被害者の倒れていたへやが、内側から完全に締まりができていて、犯人の逃げた方法がわからないということですね。つまり、密室事件というわけでしょう。それについて、ちょっとわたしの考えをお耳に入れたいと思いましたのでね」
 それを聞いた警官は、向こうへ行って、警視庁のおもだった人々や、所轄警察の署長などに、松下氏の来意を伝えたが、りっぱな紳士だし、職業が弁護士だというので、ともかく話を聞いてみようということになった。
「どういうお話があるのでしょうか」
 署長が松下氏に近づいて尋ねた。他の警察官たちも、そこへ集まってきた。その中に佐川春泥の召し使いだという谷口じいさんもまじっていた。
 松下という紳士は、一同の作った円陣のまんなかに立って、まるで講演でもするような、気どった調子で話しはじめた。
「ぼくは密室の犯罪というものを、日ごろからいささか研究しているのです。作蔵の話によって、その事件の密室がどういうものであるかも詳しくわかっております。そこで、この密室のなぞについて、ご参考までに、ぼくの意見を申しあげてみたいと思って、実は、わざわざ出向いてきたわけです。
 この建物は、ドアに仕掛けるトリックはまったく不可能な構造であること、また、窓にも完全な鉄ごうしがはまっていて、なんら策をほどこす余地のないこともわかっております。すると、犯人はいったいどこから外に出ることができたか。これが与えられた問題ですね。
 ところが、アメリカに、ドアにも窓にも関係なく密室を造ることを考え出した犯人があります。それは屋根です。屋根の横木を、ジャッキの力で上にあげて、そこに人間ひとり出入りできるすきまを作るのです。そして、出たあとはもとのとおりにしておくのですから、ちょっと気がつきません。密室トリックには、こういう新手があるのですね」
 それを聞くと、警視庁鑑識課のおもだったひとりが、思わず口をはさんだ。
「ところが、あの書斎の天井は白い漆喰しっくいで塗りかためてあるのですよ。漆喰をこわさないでは絶対に出はいりできない。そして、その漆喰には少しもこわれたあとがないのです」
 松下という紳士は、少しも騒がず、それを受けて、
「わかりました。しかし、ぼくはこの事件の犯人が、屋根から出はいりしたと申したわけではありません。こういうきばつな例もあるということを、お話ししたまでです。屋根といえば、もっときばつな手を使った犯人が日本にあります。つい五、六年まえのことです。山形県のいなかで、小さな家の屋根にロープをかけて、その家の上に太い枝を張っている大きなカシの木にいくつも万力をつけ、屋根全体を上に持ち上げて、そのすきまから逃げ出し、屋根はまたもとのようにしておくという、気ちがいめいたことをやった犯人がありました。
 ところが、これも四、五年まえのことですが、こんどはアメリカに、それに上越すとっぴなトリックを考えついたやつがあるのです。その男は、ある原っぱで人を殺しました。そして、それを不可能な犯罪に見せかけるために、という意味は、そうすれば犯人の物理的なアリバイがなりたつわけですからね、そのために、その原っぱの死体の上に、一晩のうちに一軒の家を建てたのです。ドアにも窓にも、中からカギをかけておいて、それから板壁をうちつけたのです。そうすれば密室のなぞができ上がります。犯人はドアや窓からではなくて、壁から出入りしたのです。そして、外側から板壁を打ちつけたのです。まさか、人を殺しておいてから、その上に家を建てるなんて、だれも想像しませんからね。いかがです、この話は今度の事件のご参考にはなりませんか」
 そのとき、警官たちの中にまじって、この話を聞いていた谷口じいさんが、こそこそとどこかへ立ち去ろうとしたが、松下紳士は目早くそれを見つけて、声をかけた。
「そこの白ひげのおじいさん。あなたはここのうちの人でしょう。あとでちょっとお話があります。どこへも行かないで、もうしばらくぼくの話を聞いててくれませんか」
 そのひとことで、立ち去りそうにしたじいさんがくぎづけになってしまった。じいさんは気まずいにが笑いをして、もとの場所にもどった。
「人を殺してから、家を建てる。この着想は実におもしろいと思う。ここのレンガ建ての離れ家は、聞けば、ごく最近でき上がったということです。皆さんは建築が完成してから殺人が行なわれたとお考えになっている。まことにもっともなお考えです。人は全部建築ができてからでなければ、そこに住まないのが普通ですからね。
 ところが、それを逆にしてみたらどうでしょう。犯罪者のトリックというものは、いつも常識の逆をいって、人の虚を突くものです。つまり、常識の盲点を利用するわけですね。こんどの殺人は、建物が完成するかしないかの、きわどいときに行なわれました。もし、トリックをろうする余地ありとすれば、そこにこそあるべきです。
 ぼくは見ていたわけではありませんから、どこをどうしたという具体的なことはいえません。ただ、原理を申しあげるにすぎないのです。あの離れ家の壁が全部でき上がらないうちに、ドアや窓を完成したと仮定します。そして、ドアには中からカギをかけ、かんぬきをおろし、窓には鉄ごうしをはめ、ガラス戸に掛け金をかける。しかし、まだ壁には人間の出はいりできるほどの穴があいているのです。その穴から犯人が逃げ出して、外からレンガで、その穴をふさいでしまう。これも一つの着想です。建築の方式にない順序ですから、人の意表を突くのです」
 そのとき、またさっきの鑑識課員が、口をモゴモゴやって、何かいいだしそうなふうに見えたので、紳士はそれを手で制して、
「あなたのおっしゃろうとしていることはわかります。それをこれからお話しするのです。いま申しあげた方法は、こんどの場合にはあてはまりません。なぜといって、壁はレンガだけでなくて、室内の側には、レンガの上から漆喰しっくいが塗ってありますし、また、板の腰張りがあります。犯人が外に出てから、こういう内側の細工をすることは、とてもできません。ですから、こんどの場合には、この方法は除外しなければならないのです。
 では、ほかにどんな方法があるのか。実に簡単な方法があるのです。レンガ職人でも左官屋でもかまいません。それをひとりだけ残しておいて、殺人のあとで仕事をさせるのです。どこの仕事か――。窓の鉄ごうしをはめる仕事です。おわかりですか。鉄ごうしをはめるまえに殺人をやるのです。そして、犯人は窓から逃げ出す。そのとき、窓ガラス戸の掛け金は、まだかかっておりません。
 それからどうするのか、犯人は職人に死体を見せてはたいへんなので、逃げ出すまえにシーツのようなものを死体の上にかぶせておきます。そして、そのシーツのどこかに太い糸を結びつけて、その糸のはじを、窓の外から手をのばせばつかめるような個所に、ちょっと結んでおくのです。ガラス戸の掛け金に結びつけてもかまいません。
 さて、窓から出たら、ガラス戸をしめて、それから職人を呼んで鉄ごうしをはめさせるのです。聞けば、こうしの鉄棒は一本ずつセメントの中に深く埋めてあるということですから、そのセメント塗りの仕事をやるわけですね。そして、鉄ごうしが完成して、職人が帰ったあとで、外から窓のガラス戸をひらき、さっきの糸のはじをひっぱって、シーツを外へ引き出してしまう。それから、ガラス戸の掛け金を上にあげておいて、静かに戸をしめてから、掛け金の外側を強くたたくと、掛け金がその響きで受け金の中に落ちて、戸締まりができるというわけです。乾燥剤を入れたセメントを使えば、一日でかわきます。そして、二、三日たってから事件を起こせば、建物全体が新しいのですから、どこが最後に仕上げられたか見分けられるものではありません。これなら、どこにも不合理なところはありますまい。いかがです。これはただ一例ですが、こういう方法も可能だということを申し上げたかったのです。
 それから、もう一つだけ申しそえることがあります。いま仮定したのは、室内で殺人をやって、犯人が外へ逃げる場合ですが、その逆も考えうるということです。あらかじめ屋外で殺人をやっておいて、工事の進行のちょうど適当なときに、職人が帰ったあとで、その死体を、今の例でいえば、窓から室内に持ちこむという方法です。この場合も、ほかの点は、すべてまえと同じ順序なのです。
 ぼくの申し上げたいことは、これだけです。では、皆さん、失礼します」
 松下という紳士は、そこでていねいに一礼すると、あっけにとられている人々のあいだをくぐるようにして、門のほうへ歩いていった。
 門を出ると、一町ほど向こうを、つんつるてんの黒セビロを着た谷口じいさんが、ちょこちょこと小走りに歩いて行くのが見えた。じいさんは、いつのまにか、庭の人々のあいだから逃げ出していたのだ。
 松下紳士は、駆けるようにしてそのあとを追い、たちまちじいさんに近づいていった。
「やっぱり逃げ出しましたね。あれほどぼくがいっておいたのに」
 うしろから声をかけられて、じいさんはギョッとしたように振り返った。
「おや、あなたはさっきのおかた」
「しらばっくれてもだめだよ。せっかくの密室トリックも、すっかり種が割れてしまったんだからね」
 紳士のことばがにわかにぞんざいになった。
「といいますと?」
 じいさんはきょとんとしている。
「ハハハハハ、おしばいはうまいもんだね。だがね、さっきの死体がにせものだってことは、もう今ごろ、病院でばれてるころだぜ」
「え、え、なんとおっしゃる。あの死体がにせもの……」
 じいさんは、ほんとうにびっくりした様子だ。
「ハハハハハ、おどろいているな。おい、じいさん、もうそのひげを取ったらどうだ」
「え、このひげを?」
 まだしらばくれようとするのを、紳士はいきなりじいさんに飛びかかって、白い口ひげとあごひげを、むしりとってしまった。すると、その下から現われたのは、意外にも、殺人会社専務、須原正の泣きだしそうなしかめづらであった。
「須原君、さすがのきみも、まんまとしくじったね」
 だが、須原には、この紳士が何者だか、まだ判断がつかなかった。
「で、あんたは、あんたは、いったいだれです?」
 哀れな声で尋ねた。
「わからないかね。ぼくだよ。この口ひげとめがねがないものと思って、よく見てごらん。ほら、ね。ウフフフフフ」

裏の裏


「あんた変装していなさるのか。はてな、どうもよくわからんが……」
 小男の須原は、まぶしそうに目をパチパチやっている。
「ハハハハハ、わからないかね、ほら、おれだよ」
 弁護士はそういって、めがねをはずし、口ひげを取り去って、ヌッと顔をつき出してみせた。
「や、や、あんたは佐川春泥※(感嘆符疑問符、1-8-78) これはどうしたというのだ」
 須原は、キツネに化かされでもしたような顔つきで、ぼうぜんと相手を見つめるばかりであった。
「どっかでゆっくり話をしよう。おれのほうじゃ、まだもらうものがあるんだからね」
 影男の佐川春泥は、発案料の残金三百万円を、まだ取り上げようとしているのだ。
「よろしい。わしのほうでも、聞きたいことがある。ああ、あすこに神社の森がある。あの中で話そう。こういう話は、うちの中じゃあぶないからね」
 すぐそばに、神社の深い森があった。ふたりは、まるで仲よしの友だちのように、肩をならべて、その森の中へはいっていった。
「このへんがよかろう。きみも掛けたまえ」
 小男の須原が、大きなカシの木の根に腰かけると、影男も向きあって腰をおろした。
「いったい、これはどうしたわけだ。残念ながら、わしにはまだわからないよ。まんまといっぱいくわされたね」
 須原がふしぎそうな顔でいうと、影男はニヤニヤ笑いながら、説明をはじめた。
「東京港のボートの中で、お互いにピストルを見せあったね。きみが二五口径のコルトを持っていることは、まえから知っていた。それで、おれも同じコルトを手に入れたが、それがまったく同じ型かどうかを、あのとき確かめたのだよ。そして、このあいだの晩、きみがたずねてきたとき、そっときみのポケットのピストルとすり替えておいたのだ」
「エッ、すりかえた? いつのまに? これはおどろいた。きみは奇術師だ」
「奇術師だよ。おれのような世渡りには、奇術が何よりたいせつだからね。専門家について習ったものだ。そういうわけで、きみのポケットへすべりこませておいたピストルの最初の一発はから玉だった。あとは実弾だが、おれは一発で死ぬつもりだったから、それでよかったのだ。きみがあとになってピストルを調べても、残っているのは皆実弾だから、まさか最初の一発だけがから玉だったとは気がつくまいからね」
 小男須原の顔に驚嘆の色が現われた。
「おそろしい度胸だ。わしがもし二発めを撃ったら、きみはほんとうに死んでいたのだぜ」
「ハハハハハ、そこが心理学さ。一発で相手が倒れて、動かなくなったら、二発めは撃たないものだ。犯人は音をたてることを、ひどく恐れるからね。
 きみはおれのすり替えておいたピストルで、おれを撃った。きみが撃つだろうということは、ちゃんとわかっていた。だから、おれはしばいの血のりを用意しておいてね、きみがピストルを撃つと、すぐに倒れながら、自分の顔に血のりを塗りつけて、ピストルが顔にあたったように見せかけた」
 そこまで聞いても、須原にはまだがてんがいかなかった。
「ちょっと待ってくれ。それはおかしいよ。わしの目の前で倒れたのは、たしかにきみだった。ところが、わしはあのとき、心臓にさわってみたし、手首の脈もとったが、どちらも完全にとまっていた。わしはぬかりなく確かめたつもりだ。それが生き返るなんて、考えられないことだ」
「あれも奇術さ」
「エッ、奇術で脈がとまるのか」
「心臓をとめるのはむずかしい。だから、おれはシャツの中に、胸の形をしたプラスチックの板を当てておいたのだ。そうすれば、さわっても鼓動は感じない。手首のほうはプラスチックをかぶせるわけにはいかない。これは昔から奇術師のやっている方法を用いた。わきの下にピンポンの玉より少し大きいぐらいの堅いゴム玉をはさんで、腕の内側の動脈にあてがって、グッとしめつけているんだ。そうすると、そこから先の手の脈はとまってしまう。ちょっとのあいだ脈をとめてみせるなんて、わけのないことだよ」
「うーん、そんな手があるとは知らなかった。さすがにきみは『影男』だよ。で、わしがきみの死骸しがいにむしろをかぶせておいて、仲間へ電話をかけているあいだに、きみはのこのこ起き上がって、別のほんものの死体と入れかわったってわけか」
「きみのたくらみは、海の上でピストルを見せあったときからちゃんとわかっていたので、医科大学の実験用の死体のなかから、おれに近い年配、背かっこうのものを盗み出させ、レンガの書斎のそばの木の茂みの中へ隠しておいた。この死体のほうは、ほんとうに顔に傷つけて、血だらけにして、それにおれの服を着せておいたので、きみはうまくごまかされたのだよ」
 須原はいよいよ感にたえた顔つきであった。
「きみみたいな奇術師にあっちゃあかなわない。そもそものはじめから、わしはやられていたんだね。わしのほうでは、犠牲となるきみ自身に完全犯罪の計画をたてさせ、そのきみの計画できみを殺そうという、思いきった手を考えついたんだが、きみは早くもそれを察して、裏の裏の手段を用意していた。わしのほうが底が浅かったことを認めるよ。だが、わしはまだ負けたわけじゃない。裏の裏には、またその裏があるかもしれないからね」
 小男の須原が、顔じゅうをしわだらけにして、ニヤニヤと笑った。
 影男はその表情を見て、「しまった」と思った。思わずポケットに手をやったが、ピストルは持っていなかった。立ち上がろうとしたが、もうおそかった。うしろから、がんじょうな腕がニューッと首に巻きついてきた。木の陰に、もうひとりの敵が隠れていたのだ。
 それを見ると、須原も前から飛びかかってきた。小男の須原はたいしたこともなかったが、うしろの敵はおそろしい力を持っていた。鋼鉄のような腕を持っていた。
 影男は、全身の力をふるって、首に巻きついた腕をもぎはなし、すばやく立ち上がった。それから五分ばかり、激しい死闘がつづいた。
 敵はふたり、味方はひとり、それに、新しく現われたやつがおそろしく強いので、さすがの影男も、とうとう組み伏せられてしまった。うしろにねじあげられた両の手首に、細引きがグルグル巻きついてきた。それから、両方の足首にも。そして、ごていねいに、さるぐつわまではめられてしまった。
「ハハハハハ、きみにも似合わないゆだんだったね。まさかこの森の中に伏兵がいようとは、思いもおよばなかっただろう。これで、つまるところ、わしの勝ちというわけだね」
 小男は息を切らしながら、毒口をたたいた。
 もうひとりの男は、影男は知らなかったけれども、昌吉と美与子のふたりを小べやの中に塗りこめたとき、ドアの外のレンガ積みをやったあの斎木という運転手であった。
「さあ、急いで車まで運ぼう」
 小男のさしずで、ふたりがかりで影男をかかえ、森の奥深くはいっていった。そして、神社の境内を囲む生けがきの破れから道路に出ると、そこに一台の自動車が待っていた。
 影男はその後部席に押しこまれ、須原がとなりに腰かけて監視役をつとめた。運転手は前部席にはいって、ハンドルを握った。車はゆっくりとすべりだした。
 徐行させながら、運転手はうしろを振り向いて、殺人会社専務取締役の須原に話しかけた。
「専務さん。実はちょっと心配なことがあるんです。こいつを車にのせるのを急いだので、今までだまっていましたが、大敵が現われたのですよ」
「エッ、大敵とは?」
 須原は驚いて、運転手の横顔を見つめた。
「こいつに聞かれてもかまわないでしょうね。さるぐつわははめたけれど、耳は聞こえるんだから」
「かまわないとも、こいつはもうのがしっこないからね。まもなく、この世をおさらばするやつだ。何を聞かせたってかまやしない」
 須原は、こんどこそ、よほどの自信があるらしい。
「それじゃいいますがね、明智小五郎のやつが、われわれの事業を感づきゃがったのですよ」
「エッ、明智小五郎が?」
「ぼくはここへ来るまで、六本木の事務所にいたんですが、専務さんが出かけられてまもなく、変な電話がかかってきたんです。相手はだれだかわかりません。明智小五郎が感づいたから注意しろという警告です。からかいかもしれません。しかし、用心に越したことはありませんからね。六本木のうちへはいるのは、よくあたりを調べてからにしたほうがいいでしょう」
「そうか。それがほんとうだとすると、薄気味のわるい話だな。明智が動きだせば、そのうしろには警視庁がいる。そんなことになったら一大事だぞ。で、ほかのふたりの重役は、それを知っているのか」
「符丁電話で知らせておきました。おふたりさんは、もう今ごろは安全地帯へ逃げ出していますぜ」
 須原は腕組みをしてだまりこんでしまった。
 運転手も正面を向いて自動車の速度を増した。
「よし、この辺でとめろ。きみは降りて、ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちょっとと」]うちの近くを見てきてくれ」
 六本木にはいると、須原がさしずを与えた。運転手は車をとめて、ひとりで降りていったが、しばらくすると、しんけんな顔つきになって帰ってきた。
「いけません。うちの裏表に、五、六人はりこんでいやあがる。刑事かどうかわかりませんが、とにかく、われわれの帰るのを待ち伏せしているのはたしかですよ」
「そうか。それじゃ、品川の事務所へやれ。御殿山の家だ」
 車はふたたび走りだした。御殿山にも殺人会社の事務所があるものとみえる。事務所というのは、つまりかれらの隠れ家なのだが、この調子では、そういう隠れ家をほうぼうに持っているらしい。それほどの用意がなくては、殺人会社などというだいそれた事業はできないのであろう。
 御殿山の近くまで走ると、また車をとめて、運転手だけが物見に出かけていったが、まもなく、顔色をかえて走りもどってきた。
「だめだ。ここにも張りこんでいやあがる。こんどはどこにしましょう」
尾久おぐだ」
 須原はひとこといったきり、だまりこんでしまった。車は矢のように走った。品川から尾久までは相当の距離であった。尾久の隠れ家に近づくころには、もうあたりが薄暗くなっていた。
 驚いたことには、尾久の隠れ家にも見張りがついていた。
 小男須原の顔には、四方から追いつめられた野獣の相貌そうぼうが現われてきた。
 車はさらに三カ所の隠れ家に走ったが、どこにも手まわしよく見張りの者がついていた。これはもう、私立探偵たんてい単独の行動ではない。警視庁も力を合わせているのだ。
 右に左に逃げまどっていた野獣が、ついに逃げ場を失ったように、須原たちの自動車は世田谷区の、とある街道かいどうに立ち往生をしてしまった。
 須原は長いあいだ考えこんでいた。このぶんでは、もう非常線が張られているかもしれない。東京から外へ出ようとするのは危険だ。といって、都内の大道路でもいつ検問を受けないともかぎらない。早くどこかへ隠れなければならぬ。
 須原はとうとうかぶとを脱いだ。こういう場合には何よりも鋭い知恵が頼みだからである。かれは後部席のすみにぐったりとなっている影男の肩をそっとつついて話しかけた。
「様子はきみも聞いていただろう。わしがつかまれば、きみも同罪だ。きみはわしの仕事をてつだったばかりじゃない。きみ自身でも、ずいぶん悪事を働いている。つかまったら、当分日の目を見ることはできまい。だからね、ものは相談だ。隠れ場所を教えてくれ。明智の手も、警視庁の手も、絶対に届かぬような、安全な隠れ場所を教えてくれ。教えてくれる気なら、さるぐつわをといてやるが、どうだ」
 それを聞くと、影男が深くうなずいてみせたので、すぐさるぐつわを解いてやった。
「また仲直りか」
 影男は口がきけるようになると、直ちに皮肉の一矢を放った。
「うん、しかたがない。お互いの利害が一致すれば、一時休戦だ。とにかく、今はきみもわしも、身の安全を図らなければならない。こういう場合、いつも名案を持っているのは、きみのほうだ。お互いのために、ひとつ知恵をしぼってくれ」
「窮余の講和というわけか。きみもずいぶんかってなやつだな。まあいい、それほどにいうなら、ひとつ名案をさずけてやろう。影男は融通むげ、窮するということを知らない人間だからな」
「たのむ、たのむ。こうなれば、きみの知恵にすがるばかりだ」
「それじゃあ、この細引きを解いてくれ。からだの自由がきかなきゃ、名案も浮かばないよ」
「うん、解いてやる。だが、だいじょうぶだろうな。わしを裏切って、逃げ出す気じゃないだろうな」
「そんなに疑うなら、よしたらいいだろう。おれのほうから頼んだわけじゃない」
「わかった、わかった。それじゃあ、解いてやる。そのかわり、もし逃げようとすれば、わしもやけくそだ。ピストルをぶっぱなすよ。ほら、これだ。こんどはから玉じゃないぞ」
 須原は例のコルトを見せておいて、細引きを解いてやった。
 影男は自由になった両手をさすりながら、
「ここはどこだ」
「下高井戸の近くだよ」
 運転手がふりかえって答えた。
荻窪おぎくぼまで、どれほどかかる?」
「十五、六分だな」
「よし、荻窪だ。荻窪から青梅街道おうめかいどうを少し行ったところだ。そのまえに電話をかける。公衆電話があったら止めてくれ」
 車は走りだした。西の空の夕焼けがだんだん薄らいで、街灯の光が目だちはじめていた。
 じきに公衆電話のボックスがあった。影男は、ポケットの中でピストルを構えた須原につき添われて車を降り、ボックスにはいった。
「うまいぐあいだ。隠れ場所が見つかったぞ。これから、きみにおもしろいものをみせてやる」
 影男は、やがてボックスを出ると、ニヤニヤ笑いながら、そんなことをいった。
 ふたたび車は矢のように走りだした。国鉄の線路をこえて、青梅街道に出ると、影男が右、左とさしずをした。そして、止まったのは、高いコンクリートべいでかこまれた大きな屋敷の門前であった。電話で知らせてあったためか、車がとまると、アラベスクのすかし模様の鉄の門扉もんぴが、音もなくいっぱいにひらいた。車はその中へすべりこんでいった。すると、門扉は静かに、ふたたびとざされた。

艶樹えんじゅの森


 門内に車をとめて、三人が降りると、どこからか黒ビロードのシャツとズボンを着けた男が影のように浮き出してきて、影男と何かささやきかわしたかと思うと、そのまま先に立って、裏庭のほうへ回っていった。
 そこには森のように木が茂っていた。そして、大きな池が黒く見える水をたたえていた。黒い男の手まねで、三人はその池の岸に立ちどまった。影男はこれから何が起こるかをよく知っていたけれども、須原と部下の運転手は、はじめてここに来たのだから、一種異様の不安を感じないではいられなかった。
「妙なところへ来たが、これからどうなるんだね」
 須原が影男の耳に口をつけるようにして、心配そうにささやいた。
「この池の中へ隠れるんだよ」
 影男は、自分自身の経験を思い出して、心の中でクスクス笑いながら、わざと思わせぶりな答え方をした。
「エッ、なんだって? この池へはいるのかい」
「うん、はいるのだよ。水の中へもぐるんだよ。ウフフフフフ。だが、安心したまえ、直接もぐるんじゃない。それにはうまい方法があるんだ。いまにわかるよ。まあ、見ていたまえ」
 みなだまりこんでいた。広い邸宅ばかりの寂しい場所だし、この庭そのものが森林のように広いので、何の物音も聞こえてこない。夕やみは刻々に迫り、一つのあかりも見えず、あたりはもう見分けられぬほどの暗さになっていた。やみと静寂とが、異常な別世界を感じさせた。
 黒い池の表面がかすかにゆれているように見えたが、突然、そこから棒のようなものが現われてきた。棒の先がキセルのがん首のように曲がっている。ペリスコープだ。それが三フィートほども伸びると、池水はさらに激しくゆれ動いて、直径三フィートもあるまっくろな円筒形のものが、池中の怪獣のようにヌーッと巨大な頭をもちあげてきた。
 鉄の円筒が水上二フィートほどで静止すると、その上部の円形のふたが静かにひらき、その中から、鉄ばしごがスルスルとのびて、池の岸に掛けられた。
「じゃあ、どうか」
 黒ビロードの男がささやくようにいって、まっさきにそのはしごを渡り、円筒の中へもぐりこんでいった。
「あの中へはいるんだ。これが別世界への入り口だよ。別世界へはいってしまえば、もうこの世とは縁が切れるのだ。絶対の安全地帯だよ。さあ、おれについてくるんだ」
 影男は須原と運転手にそういって、はしごを渡りはじめた。ふたりはそのあとにつづく。
 鉄の円筒の内側には、縦のはしごがついていた。ひとりずつそれを伝い降りて、円筒の底に立った。狭い場所なので、からだをくっつけ合っている。
 影男は経験ずみだが、須原と運転手ははじめてなので、まっくらな円筒の底にとじこめられ、これからどうなることかと、異様の不安に襲われないではいられなかった。
 どこかでモーターの音がして、円筒がゆらゆらと揺れたかと思うと、なんだか目がくらむような気がした。ちょうどエレベーターの下降する感じだった。
 円筒が池の底へ静かに沈下しているのだ。円筒がふたたび静止すると、目の前の鉄の壁に、縦に糸を張ったような銀色の光がさし、それがみるみる太くなっていく。円筒の壁の一部がドアになっていて、それがひらいている。向こう側の電灯が、ドアがひらくにつれてさしこんでくるのだ。
 池の底では円筒が二重になっていて、出入り口も二重ドアなので、けっして水が浸入するようなことはない。人々が円筒を出ると、二重ドアは自然にしまっていく。
「こちらへ」
 黒ビロードの男が先に立って、地底の洞窟どうくつを奥へ進んで、岩膚と見わけのつかぬ一枚のドアをひらくと、そこに接客用の小べやがあり、イスやテーブルが置いてあった。
「これはようこそ。お電話がありましたので、お待ち申しておりました」
 まるまると太った色白の顔にちょびひげのある紳士が、イスから立ち上がって、西洋流のゼスチュアであいさつした。
「ぼくは二度めですが、このふたりははじめてです。例の極楽を見せてやりたいと思いましてね」
 影男がふたりを引き合わせて、みなが席につくと、案内役をつとめた黒ビロードの男が一礼して立ち去ろうとするので、影男はこれを呼びとめた。
「ぼくらの乗ってきた自動車は、ガレージに入れておいてください。門の外から見られないようにね」
 男はうなずいて、また一礼して引きさがっていく。
「ところで、規則に従って、まず観覧料をお支払いします。まえのとおりでよろしいですね」
「はい、さようで」
 色白のちょびひげ男は、もみ手をして答える。
 影男はポケットから小切手帳と万年筆を取り出し、百五十万円の金額を書き入れて、さし出しながら、
「ぼくの小切手ですが、まちがいはありません。もうおなじみになっているんだから、ご信用願えるでしょうね」
「もちろんでございます。あなたさまのばくだいなご収入については、わたくしどものほうでも、よく承知いたしておりますので」
 ちょびひげはちょっとウインクをして、ニヤリと異様に笑ってみせた。
「では、三人いっしょに奥へ行ってもよろしいですか」
「もちろんでございます。ですが、ちょっとお断わりしておきますが、あなたさまがこのまえご覧になりましたけしきは、がらり一変いたしておりますよ。このまえは海でございましたが、こんどは森でございます。艶樹えんじゅの森と申しまして、別様の風景を作り上げたのでございます。それから、第二のパノラマ世界もまた、すっかり変わっております。それは荒涼たるこの世のはてでございます。そこへ行く通路は……いや、これは説明いたしますまい。艶樹の森をさまよっておいでになれば、自然とそのもう一つの別世界に出られるようになっております……では、どうか廊下を奥へお進みいただきます。案内のものは、このまえと同じように、途中までお出迎えしておりますから」
 ちょびひげに送り出されて、三人はトンネルのような洞窟の中を奥のほうへ進んでいった。どこかに隠しあかりがついているとみえて、洞窟のゴツゴツした岩膚が、ぼんやりと見えている。
 しばらく行くと、洞窟の奥から、まっしろなものが現われてきた。このまえと同じ全裸の美女である。三人はこの裸女の案内で岩屋の湯にはいり、着替えをすませた。すべてまえのときと同じである。三人のうち、斎木運転手だけは、なぜか湯にはいらないで、着替えだけにした。着替えたのは、例のぴったりと身についた黒ビロードのシャツとズボンである。
 それから三人は、例のまっくらな洞窟の中へはいっていった。トンネルはだんだん狭くなり、ついには四つんばいにならなければ通れないほどになった。そして、やがて行きどまりだ。だが、影男は経験ずみなので、迷わなかった。じっと待っていると、正面の岩がスーッと横に動いてそこにぽっかり通路がひらいた。
 ひらいた岩の向こうに、急な上りの階段があった。それを上っていくと、そこに不思議な世界がひらけていた。
 三人がはい出した穴は、目の届くかぎり果てしもしらぬ大森林のまんなかであった。
 ここは地上ではない。むろん、地底世界のつづきなのだ。地底にこんな大森林があるはずはない。むろん、この世界の経営者の巧みな目くらましにちがいない。このまえには、地底に無限の大洋がひろがっていた。それはパノラマ原理の応用であった。この大森林も、おそらくそれに似た幻術なのであろう。
 だが、この森は地上では見ることのできない不思議な森であった。そこの巨樹たちも、いかなる植物学者も目にしたことのない異様の妖樹ようじゅであった。
 そのふたかかえもある太い幹は、白、桃色、またはキツネ色の複雑な曲線におおわれ、それが絶え間なくむくむくとうごめいていた。うごめく樹幹の上には、巨大なシュロの葉のようなものが、空を隠して繁茂していた。
 森の中にはなま暖かく甘い芳香が、むせ返るように漂っていた。それは若い女性の肉体から発散する香気であった。
 三人は手近の一樹の幹に近づいて、こわごわそれを観察した。その幹は、裸女の肉体の密集からなりたっていた。おそらく、中心に一本の堅い棒が立っているのであろう。その棒の頂上からシュロの葉が四方にひろがっているのであろう。だが、幹は生きて動いている。棒の下から頂上まで、裸女がそれに取りすがって、折り重なり、ひしめき合っているのだ。そして、うごめく白と桃色とキツネ色の幹ができ上がっているのだ。
 からだとからだとがすきまなく密着し、重なり合っているので、全体がなまめかしい曲線を持つ一本の太い柱になっている。古代インドの石窟せっくつの柱には、これに似た彫刻がきざまれていた。しかし、あれは動かぬ石の彫刻、ここのは生きてうごめく肉の彫刻である。
 よく見ると、ひとりの女のわきの下にはさまれ、別の女の顔がこちらを向いて、にこやかに笑いかけていた。ひとりの女のゆたかなおしりの下に、別の女の乳ぶさが震えていた。腕と腕とがねじれ、足と足とがからまり、ある腕や足は肉の枝となって横ざまに伸び、ふりみだした黒髪は、巨木にまといつくツタカズラとも見えて、それらがつとめて静止してはいるのだが、若い生きもののことだから、むくむくと、絶えずどこかが動いている。
 それがただ一本の幹ならば、さして驚くこともないのだが、何百何千本、同じような裸女の巨木が目もはるかに、無限のかなたまでつづいている。こんなことがはたしてありうるのであろうか。
 一本の木に十数人としても、数百本、数千本となっては、ほとんど数えきれない裸女を動員しなければならない。この地底世界に、それほどの巨資があるのであろうか。このまえにちょびひげがいっていたのでは、地底世界の女の数は百人ぐらいのはずであった。そのくらいの人数で、この見るかぎり裸女で埋まっている森林ができ上がるはずはない。
 やっぱりパノラマの原理で、遠方の木は壁画にすぎないのであろうか。だが、それにしては、はるかかなたの小さく見える木々までも、みな生あるもののごとくうごめいているのは、どうしたわけであろう。
 三人はあまりの妖異よういに、ものいうことも忘れて、ふらふらと、裸女の幹から幹へとさまよっていった。かれらの右ひだりを、白、桃色、キツネ色の、あらゆる曲線が送りまた迎えた。顔を外向けにしているのはごくまれであったが、その顔は皆、三人の旅行者にみだらなほほえみを送った。顔のまわりには、ふくよかな腰、腹、乳、肩、しり、もも、腕がひしひしと取りかこんで、微妙に蠕動ぜんどうしていた。ある膚は白くなめらかに、ある膚は桃色に上気し、ある膚はにおやかに汗ばんでいた。
「おやッ、見たまえ、あっちから、黒ビロードの見物人がやって来るぜ」
 須原が地底にはいってから、はじめて口をきいた。
 見ると、向こうの樹間に、ちらちらと黒い人影が見える。やっぱり三人づれでこちらへやってくる。
「アッ、あっちにもいる」
 そのほうを見ると、そこにも同じような三人づれ。
「ごらんなさい。うしろからもやって来る」
 運転手の声にふり返ると、後方の樹間にやっぱり三人の黒い人影。
「や、あすこにも!」
「おや、こちらからも!」
 三人はグルグルまわりながら、四方をながめまわしたが、四方八方の立ち木のかなたに、無数の黒い人影がちらついていることがわかってきた。そればかりではない。二十メートルほどのところに立っている三人の黒衣のはるか向こうに、また同じような人影がちらつき、そのまた向こうの、かすんで見わけられぬほどの遠方にも、小さな人影が見えている。四方八方そのとおりなのだから、この森の中にいる黒ビロードの見物人は、ほとんど数えきれないほどの数である。
 いよいよ、ただごとではない。こちらが気でも狂ったのではないか。恐ろしい夢を見ているのではないか。
「アハハハハハ」
 突然、影男が笑いだした。ほかのふたりはギョッとして、その顔を見つめる。
「わかった。手品の種がわかったよ。鏡だ。鏡が四方にはりつめてあるんだ。いや、四方じゃない。ここは八角形のへやで、八方が鏡になっているんだ。だから、ほんものの女体の木は十本ぐらいで、あとは鏡に写ったその影なんだ。八面の鏡に反射し、逆反射するので、無限に遠くまでつづいているように見えるんだ。黒ビロードの見物もそのとおり、ほんものはわれわれ三人きりだが、それが八方の鏡に映って、あんなにおおぜいに見えるんだ。
 地上世界の見せ物でこんなことをやれば、すぐに種がわかってしまうが、地底の洞窟どうくつという好条件がある。それに、照明が実にうまくできている。そこへもってきて、女ばかりでできた木の幹というずばぬけた着想だ。ひょいとここへいれられた見物は、どぎもを抜かれて、つい目もくらもうじゃないか」
 手品の種がわかっても、目の前の不思議なながめは、少しも魅力を失わなかった。ともかくも、何十人というほんものの裸体の娘が、巨木の幹の代理をつとめているのだ。その一つ一つにちがった膚の色、肉のふくらみ、曲線の交錯、サイレンのようにみだらな笑顔えがお、それらの細部を見つくすまでは、男心を飽きさせることはないのだ。
 そのとき、どこからともなく、おどろおどろしく太鼓の音が聞こえてきた。怪談作家ブラックウッドが、アマゾン川の流域の無人の境で聞いたというあの別世界の音響のように、所在不明の太鼓の音が響いてきた。
 三人は慄然りつぜんとして立ちどまり、互いの目をのぞき合った。
 太鼓についで、静かに起こる弦楽の音、十数張りのバイオリンのかなでるこの世のものならぬ妖異よういのしらべ。それにつれて、裸女の森林をゆるがす大音響がわき上がった。美しく、雄大きわまる女声の四部合唱。木々の幹なる裸女どもが、口をそろえて歌っているのだ。その歌声は洞窟にこだまし、八方の鏡にはねかえされて不思議な共鳴を起こし、無限のかなたまでつづく大森林全体が、歌に包まれ、歌に揺れているように感じられた。
 耳をろうする歌声は、あるいは低く、あるいは高く、いつまでもつづいた。そのリズムに取りまかれ、リズムに身も浮き上がり、三人のからだが徐々に調子を合わせて動揺しはじめたのも無理ではなかった。
 ぴったり身についた黒ビロードのメフィストたちは、しなやかに手を振り、静かにステップを踏んで、歌うたう裸女どもの幹から幹へと、身ぶりおかしくめぐりはじめた。
 めぐりめぐれば、次々と笑いかける愛らしい目、におやかなくちびる。木の枝になぞらえてバレーのように高々とあげた裸女の足、裸女の手も、歌声に合わせて、ゆるやかに律動していた。その中を、踊りながらめぐり歩く黒ビロードのメフィストは、ゆらぐ裸女の手に触れ、足に触れ、肩をなで、乳ぶさをかすめ、はては、歌うたうくちびるにさえ触れるのであった。
「や、あれはなんだ?」
 須原のとんきょうな声に、指さす方をひと目見ると、さすがの影男も、アッと声をのんで、立ちすくんでしまった。
 妖異の森には、妖異のけだものがすんでいた。かなたの樹間に現われたのは、裸女の幹と同様、一見してはなんともえたいの知れぬ怪獣であった。
 前にも、横にも、うしろにも、美しい人間の顔がついていた。そして、十本の腕、十本の足、巨大な桃色の怪獣が、その十本の足をムカデのように動かして、こちらへ近づいてくるではないか。
 前後左右の五つの顔は、赤いくちびるで歌をうたい、十本の手はなよなよとそれに合わせて拍子をとり、十本の足も巧みにステップを踏んでいる。それは五人の裸女がからだを異様に組み合わせ、ねじり合わせて、一匹のなまめかしい巨獣となったものであった。
 洞窟どうくつにはいってから二時間あまり、黒いメフィストは時を忘れ、追われている身を忘れ、地上のいっさいの煩いを忘れ、艶樹えんじゅの森と、地底世界をどよもす音楽と、歌声と、踊り狂う五面十脚の美しい怪獣とに、果てしもなく酔いしれていたが、ふと気がつくと、またしても、ただならぬ奇怪事が起こっていた。
 八方の鏡に映る黒ビロードの人影が、刻一刻、その数を増していくかに感じられた。はじめのうちはだれも気づかなかったが、こうも人数がふえてきては、もう気づかぬわけにはいかぬ。影男がまず立ちどまり、つづいて須原が立ちどまった。
「これはどうしたことだ。おれの目が酔っぱらっているのか。それとも、またしても何か地底の魔術がはじまったのか」
「わしの目もどうかしている。鏡の影が倍になった。いや、三倍、四倍になった。見ろ、木の幹のすきまというすきまは黒い人間でいっぱいじゃないか。おかしいぞ。ほら、わしはいま手をあげた。だが、手をあげないやつがいっぱいいる。わしらの影じゃない。別の人間がはいってきたのか?」
 ふたりは手を上げ足を上げて、八方の鏡を見まわした。手足をあげている影は、全体のほんの一部分にすぎない。やっぱり、別の黒ビロードがはいってきたのだ。ひとりやふたりではない。五人、十人と、新まいの客がつめかけてきたのであろう。
 音楽も歌声も、少しもとぎれないでつづいていた。耳をろうする音響が、かれらの思考力を混迷させたのであろうか。
 いや、そうではない。鏡の影とは見えぬ実物の黒ビロードが、前から、うしろから、右から、左から、ふたりのほうへ近づいてくるのがはっきり認められた。その近づきかたが、ただごとではない。賊を包囲した警官隊が、包囲の輪をじりじりとせばめてくるあの感じであった。しかも、その包囲陣は少なくとも十人を下らないように見えた。
 ふたりはもう身動きができなかった。いまわしい予感がひしひしと迫ってきた。
 だが、音楽と歌声は最高潮に達していた。木々の裸女たちのゆらめきも、物狂わしくなっていた。ワーン、ワーンという響きに八方の鏡もゆらぎ、洞窟どうくつそのものも揺れ動いているかと感じられた。
 その大音響が、一瞬にしてぴたりと止まった。裸女どもも、人形のように静止した。何かただならぬ鋭い物音が聞こえたからである。それは銃声であった。ピストルの音であった。そのあとのあまりの静けさに、耳鳴りだけがジーンと残っていた。
 ハッとして見まわすと、四方から迫った黒ビロードの人々の手に、ことごとくピストルが構えられていた。実物は七、八人だが、八方の鏡に映る何百何千人。そのおびただしい黒衣の人々が、百千の銃口をこちらに向けておびやかしているのだ。
「手を上げろ」
 まっさきに進んだひとりが、死の静寂を破ってどなった。
 影男も須原も、すなおに両手を高く上げた。妖異な環境と、みごとな不意討ちが、さしもの悪党どもを、いっせつな、無力にしてしまったのだ。
「殺人請負会社専務、須原正、通称影男、速水荘吉を逮捕する」
 それは警官の声であった。どうしてこの地底世界へ、警官がはいりこんできたのか。そんなことは不可能ではないか。だいいち、警察官がぴったり身についた黒ビロードのシャツなど着ているというのは、考えられないことだ。
「きみたちは、いったいだれです」
「ぼくは警視庁捜査一課第一係長の中村警部だ。逮捕状もちゃんと用意している」
 黒ビロードの人は、そういって、ふたりの前に一枚の紙片を差し出してみせた。一見して、正規の逮捕状であることがわかった。
 これはいったい、どうしたことだ。地底世界の経営者が内通したのだろうか。あのちょびひげが、友誼ゆうぎにそむいて警察に知らせたのであろうか。そんなことはありえない。この地下装置による不当営利事業をその筋に知られたら、かれも重い処罰を受けるはずではないか。かれではない。かれが内通するはずはない。では、いったいだれのしわざか?
「おい、須原君、きみの部下の運転手はどこへ行ったのだ。その辺に見えないじゃないか」
 影男が恐ろしい顔で須原をにらみつけた。
「うん、わしもさっきから、それが気になっていたのだ。オーイ、斎木、斎木はいないか」
 その呼び声に、うしろのほうから黒衣の人々をおしわけて、運転手の斎木が顔を出した。そして、両手をさし上げているふたりのこっけいな姿を見ると、驚く様子もなく、ニッコリと笑って見せた。
「おふたりとも、もう年貢ねんぐの納めどきですよ」
 腹心の部下と信じきっていた斎木が、思いもよらぬせりふを口にしたので、小男の須原は、アッとぎょうてんした。顔は紫色になり、まぶたから飛び出さんばかりの目で、食い入るように相手をにらみつけた。

明智小五郎


「おい、斎木、なにをいってるのだ。きさま、気でもちがったのかッ」
 小男の須原が、満面に怒気をふくんで、どなりつけた。
「気がちがったのじゃない。きみのほうで、とんでもない思いちがいをしていたんだよ」
 斎木運転手は、社長にむかって、ぞんざいな口をきいた。そして、そばの刑事たちにちょっと目くばせすると、ふたりの警官が、それぞれ、影男と須原のからだをしらべて、凶器の類を隠し持っていないことを確かめた。
「思いちがいだって?」
 須原が目をむき出して、一種異様の渋面を作った。
「ぼくを斎木だと思いこんでいたのがさ」
「エッ、それじゃ、きみは斎木じゃないのか」
 そのとき、斎木と呼ばれる男が、片手で自分の頭の毛をつかむと、力まかせにそれをひきむいてしまった。かつらだった。その下から、あぶらけのないもじゃもじゃ頭があらわれた。
 かれは、こんどは両手で自分の顔をおおって、しばらく何かやっていたかと思うと、つるりと、その手をなでおろした。すると、その下から、斎木とよく似ているけれども、しかしどこかまったくちがった顔があらわれた。
 影男はその顔を知っていた。新聞や雑誌の写真で見たことがある。もじゃもじゃ頭が目じるしだった。
「アッ、きみはもしや……」
「私立探偵たんていの明智というものだよ」
 相好の変わった運転手が、ニコニコ笑っていた。あたりがシーンと静まりかえった。影男も、須原も、急にはものがいえなかった。
 やっとして、須原が不思議にたえぬ顔つきで口を切った。さすがにかれは、一瞬のろうばいから、もうおちつきを取りもどしていた。
「ふん、あんたが音に聞く明智先生ですかい。お見それしました。だが、いったい、いつのまに……? 変装の名人とは聞いていたが」
「六本木の毒ガスと塗りこめ事件の少しまえからね。斎木がどこかぼくと似ているのをさいわい、ぼくは斎木をある場所に監禁して、こっちが斎木になりすまし、きみの忠実な部下となった。そして、たった今まで、忠勤をぬきんでていたというわけだよ」
 明智はやっぱりニコニコ笑っていた。
「ハハハハハ、これはおかしい。すると、きみは人殺しのてつだいをしたわけだね。篠田昌吉と川波美与子を毒ガスで殺して、へやの中へ塗りこめたとき、きみはレンガ積みまでやったじゃないか。ガスのネジをあけたのもきみだ」
「それがたいへんな思いちがいだというのさ」
「エッ、なんだって?」
「ガスのネジをひらいたり、レンガを積んだりしたときには、ふたりはもう、あのへやにはいなかったのだよ」
「バカなことを。おれたちは、絶えずドアの外で見はっていた。出入り口は、あのドアのほかには絶対になかった」
「見張ってはいたさ。きみとぼくと代わりあってね」
「エッ、代わりあって?」
「ふたりをあのへやに閉じこめて、きみはのぞき窓からしばらくからかっていた。いやがらせをいっていた。それから、川波良斎を迎えに行った。あとの見張りは、このぼくに任せておいてね」
 小男の須原の目が、いっそうとび出した。そして、ウーンといったまま、二の句がつげなかった。
「あのすきに、ぼくはへやにはいって、ふたりを逃がした。ふたりは廊下の窓から出て、木のかげを伝って裏口へまわった。そこにぼくの部下が待ちうけていた」
「いや、ちがう。そんなはずはない。良斎をつれてきて、のぞき窓からのぞかせたとき、良斎がふたりの姿を見ている。見なければ、あいつが承知するはずはない」
「そこに、ちょっとからくりがあったんだよ。まあ手品だね。ぼくはズボンとスカートと二足のくつを、新聞紙に包んで、あの廊下の物置きべやに隠しておいた。それと同じ物置きべやにあった古服なんかを持ってあのへやにはいった。そして、ふたりにズボンと、スカートと、くつをぬがせ、ぼくの用意しておいたのとはきかえさせて、逃がしたのだ。残ったふたりのズボンと、スカートと、くつで、古服なんかをしんに入れて、人間の下半身をこしらえた。それを、のぞき窓の下の壁ぎわにならべて置いた。真上の窓からのぞくと、壁ぎわの上半身は見えないから、ふたりが絶望して、壁にもたれて、足をなげ出していると信じてしまったのだ」
「ちくしょう! やりやがったな」
 須原が、じだんだを踏むようにして、とんきょうな声をたてた。
 影男は興味深くそれを傍観していた。すべてかれには初耳であった。昌吉と美与子が助けられたことをこのときはじめて知り、名探偵の手ぎわを、ヤンヤとほめてやりたいような気持ちだった。小男須原のろうばいは小気味がよかった。
 それにしても、ここは名探偵と犯罪者の対決の場として、なんという異常な背景であったろう。うじゃうじゃとひしめく無数の肉体のまっただなかで、探偵理論が語られているのだ。凶悪殺人があばかれているのだ。
 裸女たちは黒衣の警官隊の侵入におそれをなして、過半はもう木の幹からおりて、明智とふたりの犯人のまわりにむらがり立っていた。この場を逃げ出したい恐怖心よりも、彼女らの性格として、ふてぶてしい好奇心が勝ちを占めた。なにか見せ物でものぞくように、三人のまわりにむらがって、不思議な問答に聞き耳を立てていた。
 明智は話しつづけた。
「すべては斎木の信用にかかっていた。きみは腹心の部下として斎木を信頼しきっていた。それがなければ、ぼくのトリックは成功しなかっただろう。きみの信用をさらに強めるために、ぼくはここにいる佐川君、それとも速水君かね、この人物を森の中で襲って、とりこにした。それから、自動車を運転して、東京のいたるところにあるきみの根城をまわりあるいた。だが、その根城のことごとくに、警察の見張りがついているといったのは、やっぱりぼくのトリックだった。あれはみんなうそなのだ。きみは斎木としてのぼくを信頼しきっていたので、そのうそを見やぶることができなかった。
 なぜ、そんなうそをいったか。窮余の一策として、きみが佐川君の知恵を借りるのを待っていたのだ。佐川君がぼくたちをどこへ連れて行くか、それが知りたかったのだ。すると、こういうおもしろい地底の世界を見せてくれた。そして、ここでまた不思議な犯罪者を発見することができた。
 三人が三人とも、さすがのぼくも今までに出会ったこともないとびきりの異常犯罪者だった。ひとりは殺人請負会社の専務、ひとりはこの世の裏を捜しまわって恐喝きょうかつを常習とする影男、ひとりは地底にパノラマ王国を築いてそれを営業とする怪人物、ぼくは一石にして巨大な三鳥を得た。すばらしい獲物だったよ。ハハハハハ」
 明智はそのときはじめて、心からのように大きく笑った。その軽やかな、はずむような哄笑こうしょうが、裸女群の頭上を漂って、八角の鏡の壁に反響した。
 すると、影男がこれもニコニコ笑いながら、一歩明智に近づいて、口を切った。
「それにしても、明智先生は、この地底の世界へははじめて来られたのでしょう。それで、どうしてこんなに手早く警察と連絡できたのでしょうか。これにも何か手品の種があるのですかね」
「それは種があるんだよ」
 明智はまるで親しい友だちにでも話しかけるような口調であった。
「きみはぼくの少年助手に小林という子どものいることを知っているだろうか。その小林が、ぼくたちの乗ってきた自動車のうしろのトランクの中に隠れていたのだよ。ぼくが隠しておいたのだよ。それはいつだというのか? きみを縛るまえに、あの神社の森のそばでさ。
 ここのうちの門をはいってから、小林はそっとトランクから抜け出して、近くの電話で、警視庁の中村警部に場所を知らせた。中村君は部下をつれて、このうちに駆けつけ、へいのまわりに待機していた。
 一方、ぼくは地底世界で、ちょっと荒療治をやった。さっき、しばらくのあいだ、ぼくはきみたちのそばを離れたね。きみたちが艶樹えんじゅ艶獣えんじゅうを観賞しているあいだに、ぼくはひと仕事やったのだ。
 きみたちに気づかれぬように、もとの道を引き返して、入り口に近い事務室で、主人のちょびひげを手ごめにしてどろを吐かせた。地底世界の様子が、あらましわかった。ここには八人の男が使われていた。その八人を、次々と事務室に呼んで、次々と縛り上げてしまったのだ。ぼくはこう見えても腕力に自信がある。ひとりとひとりなら、どんな猛者もさにもひけをとるものじゃない。
 それから、ちょびひげを脅迫して、池のシリンダーを浮き上がらせ、待機していた十人の警官を地底世界に引き入れた。そして、八人の男の黒ビロードをぬがせて、中村警部と七人の部下にそれを着せた。この艶樹えんじゅの森へ黒衣の警官が侵入してきたのは、そういうしだいなのさ。残るふたりの警官は、事務室に縛り上げてあるちょびひげと八人の男を見張っているのだよ。
 ここでは詳しく話している暇はないが、ぼくがきみたちの秘密をにぎったのは、山際良子やまぎわりょうこの口からだよ。佐川君のあまたあるガールフレンドのひとりだ。あの子は久しくきみのところへ顔を見せないだろう? それはぼくが手中のものにしたからさ。といっても、恋人にしたわけじゃない。ぼくの熱意にほだされて、悪人の手先から足を洗ったのさ。そして、彼女の知っているだけのことを、ぼくに話してくれた。だから、ぼくはきみの旧悪をあらかた知っている。川波良斎のふくしゅう事件には、ぼく自身とびこんでいったんだから知ってるのはあたりまえだが、そのほかに、春木もと侯爵夫人らの依頼を受けて、小林という艶歌師えんかしを古井戸に埋めた事件、須原君の殺人会社の依頼で、世田谷の毛利という富豪の愛人を人造の底なし沼におとしいれる案をさずけた事件など、いくつも確証を握っている。
 きみのことを調べていると、須原君の殺人会社のこともわかってきた。きみたちふたりが、ときに味方となり、ときに敵となってもつれ合ってきた関係も明らかになった。それからぼくは須原君の腹心の部下斎木に化けて殺人会社の一員となったので、恐るべき請負会社の過去の悪行の数々を調べあげることができた。
 そこで、ぼくはきみたちふたりを、一挙に撲滅する計画をたてた。そして、その計画はみごとに成就したばかりか、まったくぼくの知らなかったこの地底魔境という思わぬ収穫さえあった」
 明智が語り終わるころには、影男と須原は、そっと目くばせをして、少しずつ、少しずつ、あとじさりをはじめていた。もう三メートルも、明智とのあいだがひらいた。ふたりは、そうして、裸女の群衆の中へまじりこもうとしているかに見えた。
 明智は、それを見ても、なぜか平然としていた。予期していたことだとでもいうように、見て見ぬふりをしていた。
「アッ、明智君、あいつら、逃げるつもりだぞッ」
 中村警部がそばによって、明智の腕をつついた。だが、もうおそかった。ふたりの犯人は、群がる裸女の中に突入していた。白と、桃色と、キツネ色の肉団の密集の中を鏡の壁に近づこうとしていた。八人の黒衣が、それを追って、裸女の海を泳いだ。だが、なかなか近づくことはできない。もうピストルも物の役にたたなかった。撃てば女たちを傷つけるにきまっているからだ。
 八角形の鏡のへやは、いまや沸きたぎる人肉のるつぼと化した。鏡の影を合わせて、幾千人の裸女と黒衣が、乱れ、もつれ、あわだち、ゆらいだ。百千の口からほとばしる悲鳴は、阿鼻あび叫喚の地獄であった。
 影男と須原とは、この混乱の中を、ようやく一方の鏡の壁に達していた。かれらは手をつなぎあってギラギラ光る壁づたいに走った。その行く手に立ちふさがる女体は、次々と転倒し、足を空ざまにして悲鳴をあげた。
 この鏡の壁をつたって一周すれば、どこかに別のパノラマ世界への出口があるだろう。ふたりは期せずして、それを考えたのだ。ちょびひげの説明のなかに、ちらとそんな口ぶりがあったのを忘れなかったのだ。別のパノラマ世界へはいれば、そこにはまた、別の逃亡手段がないとはかぎらない。ちょびひげはそこをこの世の果てだといった。追いつめられた極悪犯人の逃げるところは、もうこの世の果てのほかにはないのだ。
 鏡をつたって走っていると、鏡の内側にも、外側にも、無数のひしめく肉体があった。それが押し合い、押し返し、はねのけ、つかみ合い、うめき、叫び、泣き、わめいていた。
 かどを一つ、二つ、三つ、四つ、ふたりは執念ぶかく鏡から離れなかった。そして、手の届くかぎりの鏡の面を押し試みた。隠し戸はないかと、たたき、けり、からだごとぶっつかってみた。
「アッ、ここだッ!」
 影男がとんきょうなこえをたてた。鏡板の一部がぐらっとゆれて、そこにぽっかりと黒い口がひらいた。ふたりは手をつないで、その中へまろび入った。すると、鏡の隠し戸は、またもとのように、ぴたっと閉ざされてしまった。だれも追ってくるものはなかった。ふたりはやっと別世界にはいることができたのだ。そこにはもう、女どもの悲鳴も、警官の怒号も聞こえなかった。それは死の国であった。

この世の果て


 明智小五郎は、中村警部やその部下とともに、地底世界の入り口に近いいわゆる事務室にもどっていた。
 そこには、この世界の持ち主のちょびひげ紳士と、八人の男が、手足をしばられてうずくまり、それをふたりの警官が監視していた。
「地底王国のご主人、ふたりの犯人は、もう一つのパノラマ国へ逃げこんだ。あの鏡の壁に、隠し戸があったのだね」
 明智がちょびひげの前に行って尋ねると、かれはうしろ手にしばられた上半身をおこして、恨めしそうな顔でこちらを見上げた。
「そうですよ。でも、ご見物衆はあの隠し戸からはいるまでに気を失うのです。気を失ったところを、そっと運んでおいて、パッと目をひらくと、そこにまったく別の世界があるというのが最も効果的ですからね。それには、わたしがくふうした麻酔ガスを用います。艶樹えんじゅの森をじゅうぶん観賞なさったころに、美しい魔女が、見物衆にまといつきながら、パイプのネジをひらいて、その鼻先に麻酔ガスを吹きかけるのです。
 ですから、あのおふたりが、正気のまま鏡の隠し戸をひらいて別の世界へはいられたとすれば、せっかくの趣向がぶちこわしですよ。それでは、二つの世界が連続してしまいます」
 ちょびひげは、捕われの身でも、おしゃべりのくせはやまなかった。
「きみはさっき、その別の世界は、この世の果てだといったね。そこはどんなけしきなのだね」
「まったくのこの世の果てですよ。荒涼たる岩ばかりの無限の大渓谷だいけいこくです。地球の果てです」
「ここには、その二つの世界のほかに、まだ何かあるんじゃないか」
「ありません。二つの世界で、わたしの地底王国はいっぱいですよ」
「で、そこから外への抜け道はないだろうね」
「あるものですか。外への出口は、池の中のシリンダーただ一つですよ。ですから、あなたがたは、ここにがんばってれば、絶対にふたりを逃がす心配はありません」
「ぼくもそうにちがいないと思って、わざとふたりを見のがしておいたんだがね。それで、この世の果ての世界では、どんなことが起こるんだね」
「美しい天女の雲が、舞いさがってくるのです。しかし、だれかが機械を動かさなければ、そういうことは起こりませんよ」
「そして、最後に、やはり麻酔ガスで眠らせるのかね」
「そうですよ。一つの世界ごとに、一度ずつ眠らせるのです。それも、機械を動かさなければ、ガスは吹き出しません」
「で、きみはその機械を動かせるだろうね」
「もちろんですよ。わたしが設計した機械ですもの」
「よろしい。それじゃ、なわをといてやるから、その機械を動かしてくれたまえ。もっとも、ぼくが絶えずきみにつきそっているという条件だよ」
「承知しました。それじゃ、早くなわをといてください……ところで、このわたしは、いったいどうなるのですかね。やっぱり、ひっぱられるのですか。わたしは何も悪いことはしていないのですよ。人を殺したわけじゃなし、物を盗んだわけじゃなし、自分の財産で、自分の地所の下に穴を掘らせて、その中に雄大な別世界を造りあげたというばかりですよ。もし罪があるとすれば、無届け営業ぐらいのものだとおもいますがね」
「たぶん、たいした罪にはならないだろう。しかし、いちおう取り調べられることは、まぬがれまいよ。きみが少しも悪事を働いていないかどうかは、調べてみなければわからないのだからね」
 だが、ちょびひげは、「恋人誘拐ゆうかい引き受け業者」なのだ。「殺人請負業」ほどではないにしても、けっして刑罰をのがれられるものではない。
 なわをとかれたちょびひげは明智につき添われながら、急なのぼり坂の岩のトンネルを幾曲がりして、いわゆる機械室についた。
 大きな歯車がかみあって、太い心棒にワイヤーがまきついている。どこかエレベーターの機械に似た装置である。一方には、たくさんのスイッチのついた配電盤がある。そのスイッチの操作をしていればよいのらしい。
 機械室の外は、床一面に厚ガラス板がはってある。ところどころ継ぎめがあるけれど、その一枚一枚が六尺四方もあるような大きなガラス板だ。
「この下に、この世の果てがあるのですよ。ほら、あすこに二尺四方ほどの透き通ったところがあるでしょう。あすこから、下の世界が見えるのです。このガラスはね、下側は一面の鏡ですが、あの透いて見えるところだけ、上からのぞけるようになっているのですよ。下から見ては、ほかの部分と少しも変わりのない鏡ですがね。上からのぞくために、ああいう透き通った個所が作ってあるのです」
 そこから見おろすと、黒々とした岩の裂けめが、巨大な井戸のように、底も見えぬほど深くえぐられていた。それが上部から俯瞰ふかんしたこの世の果てであった。

肉体の雲


 影男と須原の両人は、まっくらな岩穴の中を、しばらく行くと、パッと眼界がひらけた。そして、そこに恐ろしいけしきがあった。
 両側には、切り立った黒い岩山が、無限の空にそびえていた。地球の中心にとどくかと思われるほどの、深い岩の裂けめであった。渓谷けいこくにはちがいない。だが、渓谷と呼ぶにはあまりに恐ろしいけしきだった。世界のいかなる渓谷にも、これほど異様にものすごい場所はないにちがいない。
 ふたりの犯罪者は、岩の割れめの底の二匹のアリのように、そこにたたずんでいた。
 両側の断崖だんがいは、その高さ何百メートルともしれなかった。そのはるかはるかの切れめに、夜の空があった。星が美しくまたたいていた。
「あれはほんとうの空だろうか。そして、ここは、そんなに深い地の底なのだろうか」
 小男須原は、この壮絶な風景に接して、悪心を忘れ、貪欲どんよくを忘れ、ひたすら震えおののいているかに見えた。
「そんなはずはない。ぼくたちが夢を見ているのでなければ、ここはやっぱり洞窟どうくつの中なのだ。これもきっとパノラマふうの目くらましだよ。おそらく、天井に鏡が張りつめてあるのだ。それに映って、この谷の深さが倍に見えるのだ。いや、岩の作り方による錯覚で、何倍にも見えるのだ。星は豆電球かもしれない。それとも、鏡の面へどこかから投映しているのかもしれない」
 影男は奇術師の性格を持っていたので、あくまで奇術ふうに解釈した。
 ふたりはそこのくらやみにうずくまって、ぼうぜんとして、はるかの岩の裂けめを見上げていた。この不思議なけしきが、しばらく現実を忘れさせ、かれらを夢幻の境に誘った。私立探偵たんていとか、警察官とかいうものは、なにかしら遠い昔の夢のように感じられた。
 はるかの岩の裂けめが、徐々に明るくなっていた。またたく星が一つ一つ消えていった。そして、裂けめの空が、まず紫になり、エビ茶色になり、次にあざやかな朱色に染まった。夜が明けたのだ。朝日の光は断崖だんがいの上部までさしこみ、でこぼこの岩膚を、朱と紫のだんだらぞめにした。しかし、日の光は、この谷底までは届かなかった。はるかの上部を照らしているばかりであった。
 朱色がだんだんあせていくと、空は真珠のような乳色に変わった。谷底までも、ほのかにしらんできた。そして、それが、いつ移るともなく、水色から濃紺に変じていって、一点の雲もない紺碧こんぺきの空となった。
 ほのかに風の渡る音が聞こえてきた。そして、その風に送られるように、裂けめの一方から、桃色がかった不思議な形の白い雲が現われ、静かに裂けめの上を流れていく。
「アッ、あれは雲じゃない。美しいはだかの女だ。数人の女たちが、手を組み、足を組んで、一団の白い雲となって、横ざまに流れているのだ」
「羽衣をぬいだ天女のむれだ。女神めがみの一団が天空を漂っているのだ」
 女人の雲は、漂いながら、たちまちにしてその色彩を変えていった。桃色となり、オレンジとなり、草色となり、紫となり、青となり、赤となり、あるいは半面は緑、半面は臙脂えんじの異様な色彩となり、にじの五色に変化した。
 その女人雲は、動くと見えて動かなかった。いつまでも岩の裂けめの、はるかの空に漂っていた。
「何か巧みなくふうで、下から見えぬように、ロープかなんかでつっているのだな」
 影男はちらっと現実的なことを考えた。
 紺碧こんぺきの空が、ドス黒く曇ってきた。そこに現われた一点の深紅の色が、みるみる広がっていった。広がるとともに、それは雄大なひだを作って、カーテンのようにさがってきた。夢の中の緋色ひいろであった。その緋色のカーテンが、うねうねと曲線をなして、空一面をおおいつくし、いつまでも下へ下へとたれてくるように見えた。
「きみ、あれは北極のオーロラだよ。何かの絵で見たオーロラとそっくりだよ」
 緋色の光のカーテンは、横ざまに流れる天女の雲をおおってたれさがってきた。おおわれても透明なカーテンだから、女人雲のなまめかしい姿は、緋色ひいろに隔てられたように、ありありと見えている。
「アッ、きみ、あの雲は、谷の中へおりてくる。だんだんこちらへ近づいてくる」
 ほんとうに、そのなまめかしい天女の雲は、少しずつ、少しずつ下降していた。もう緋色の光のカーテンをはずれて、その複雑な曲線は桃色に輝いて見えた。
 雲そのものの下降とは別に、七人の女体が、それぞれに優美な身動きをするたびに、絶え間なく雲の形が変わった。
 それはもう断崖だんがいのなかほどまで下降していた。断崖の岩膚はまっくろな陰になっているのに、天女の雲だけが、みずから光を発するかのように、乳色と桃色に輝いていた。それがもう、目を圧するばかりに、ふたりの犯罪者の頭上に迫っているのだ。
 そのとき、どこからともなく、かすかに異様な音楽が聞こえてきた。こずえを吹く風の音のようでもあった。谷川のせせらぎのようでもあった。肉声とも、管楽とも、弦楽とも聞き分けられなかった。そのどれかのようでもあり、全部のようでもあった。悠久ゆうきゅうなるふるさとを恋うる音色であった。それには、神と、死と、恋との音調がまじっていた。
 それと同時に、谷底のふたりのそばの岩のすきまから、ほのかに青い煙が漂いだしていた。立ち上らない煙であった。重く地底をはう煙であった。うずくまっているふたりの腰にたゆたい、胸にただよい、ついに顔をおおいはじめた。不思議に甘いにおいがあった。かれらはその煙に酩酊めいていを感じた。
 いつのまにか、天女の雲は頭上五メートルに迫っていた。眼界いっぱいに広がる巨大なる桃色の雲となっていた。肉体の雲は、裸女のあらゆる陰影を刻んで、ふくれ、くぼみ、もつれ、からまって、うごめきうごめき下降しつづけた。
 その不思議な美しさは、何ものにも比べることができなかった。瞠目どうもくすべき悪夢の中の妖異よういであった。七つの顔が、巨大な花と笑っていた。十四の乳ぶさが、七つの桃型に輝くしりが、十四のなめらかな肩が、腕が、ももが……つややかに、うぶ毛を見せて光っていた。やがて、頭上三メートル、二メートル、ひとりひとりの裸女が、シネラマの巨人となった。もはや雲の全体を見ることはできなかった。わずかにその一部分、ひとりかふたりの巨像を見上げるばかりであった。
 耳には天上の楽の音があった。鼻にはむせかえる香料と女人のはだのにおいがあった。目には深いくぼみを持つ豊満な肉塊があった。肉塊はふたりの上にのしかかってきた。もうひとりの全身をさえ見ることができなかった。それは巨大なる女体の一部分であった。あぶらづいた筋肉とうぶ毛の林であった。
 ふたりは肉塊の圧迫に耐えかねて、徐々に首をちぢめ、ついには谷底の岩の上に仰臥ぎょうがしてしまった。その顔の上に、はちきれんばかりにつややかな肉塊が迫ってきた。皮膚が接触した。すべすべした冷たいはだざわりだった。顔の上をぴったりと、弾力のある肉塊がふたしてしまった。眼界がまっくらになるいっせつなまえ、そこに顕微鏡的な女体の皮膚があった。巨大な毛穴、ギラギラ光るうろこ型の角質。
 女体の圧迫に窒息したのではない。そのまえに、岩のすきまからはい出した、あのうす青い煙におかされていた。ふたりの犯罪者は、谷底に降下した天女の雲におしつぶされ、その下敷きとなって、意識を失ってしまった。
 影男のまっくらな心眼の中を、あらゆる過去の映像が、めまぐるしく駆けめぐった。

「ウ、ウ……もっと、もっと、ふんづけてくれい。ふんづけて、ふみ殺してくれい」
 ……美女の足は、ダブダブと肥え太った獅子男ししおとこのからだじゅうを、まるでうすの中のもちを踏むように踏みつづける。そのたびに、男の口から、けだものの咆哮ほうこうに似た恐ろしいうめき声がほとばしった……足ばかりではない。男の顔の上へ、二つの丸いだんだら染めのおしりが、はずみをつけて落ちていき、そのまま男の顔をふたしてしまった。
 ……女が足を抜こうとして、一方の足に力を入れると、その足がさらに深く吸いこまれた。もがけばもがくほど、ぐんぐん足がはまりこんでいく……もうももまで没していた。スカートがフワリと、水に浮いたように、どろの上に開いている。彼女は美しい女の一寸法師に見えた。スカートが浮いているので、ももから上だけの人間のように見えた……もう胸まで沈んでいた。もう首まで沈んでいた。首のまわりを、スカートが、石地蔵のよだれかけのように取りまいていた。徐々に、徐々に、口、鼻、目と沈んでいった。目が沈むときが最も恐ろしかった……もう髪の毛も隠れ、さし上げた両手だけが残っていた。それが白い二匹の小動物のように、地上をもがいていた。凄惨せいさんな踊りを踊っていた。
 ……最後に手首だけが地上に残り、五本の足のカニのように、どろの上をはいまわった。その手首も消えさると、しばらくは砂まじりのどろの表面が、ブクブクとあわだっていたが、やがて、それも、なにごともなかったように、静まり返ってしまった。
 ……その山には無数の目と、無数のくちびると、無数の手と足とがあることがわかってきた。顔の上に太ももが重なり、なめらかなかっこうのよいおしりが無数に露出していた。それは幾千幾万とも知れぬ裸女を積み重ねた生きた人肉の山であった。
 ……かれは女体の山をのぼった。二つの女体がちょっと身動きしたかと思うと、そのあいだにみぞができ、かれの足がそのみぞにはまった。それと同時に、あたりの女体が、グラグラとゆれ動き、みぞはいよいよ大きく口をひらいて、かれのからだは人肉の底なし沼に没していった。前後、左右、上下のあらゆる面にすべっこくて柔らかい裸女の曲面がつらなっていた。かれの黒ビロードのからだは、それらの弾力ある曲面に押しつぶされながら、底知れぬ深みへと吸いこまれていった。脂粉と、芳香と、甘い触感の底へ、深く深く吸いこまれていった。
 ……音楽も、踊りも、狂暴の絶頂に達した。
 ……白い女体は、こけつまろびつ逃げまわり、寸隙すんげきを見ては、疾風のように男に飛びかかっていった。二本の短剣は空中に切り結び、いなずまのようにギラギラとひらめき、男体、女体ともに、腕にも、乳ぶさにも、腰にも、しりにも、ももにも、全身のあらゆる個所に無数の赤い傷がつき、そこから流れ出すあざやかな血潮が、舞踊につれて、あるいは斜めに、あるいは横に、あるいは縦に、流れ流れて美しい網目をつくり、ふたりの全身をおおいつくしてしまった。
 ……樹木にかこまれた十坪ほどのあき地、そこにはえているのは二、三寸の短い雑草ばかりだったが、そのあいだに、二つの丸い大きな石ころがころがっていた。その石ころが、生きもののように、かすかに動いていた。石ころには、目と、鼻と、口とがあった。一つは男の顔、一つは女の顔をしていた。二つの首は一間ほどへだてて向かいあっていた。不思議な地上の獄門であった。切断された二つの首が、そこにさらしものになっているのかと思われたが、よく見るとそうではなかった。それは生き埋めであった。姦夫かんぷ姦婦かんぷを裸にして、庭にうずめたのであった。

 からだがおそろしくゆれていた。地震にちがいないとおもった。逃げようとしたが、足が動かなかった。
「助けてくれ……」
 死にものぐるいに叫んだ。パッと目がひらいた。それは地震ではなくて、車がゆれているのだった。ぐったりとうしろにもたれかけていたからだを起こした。すぐ前に三人の制服警官が並んで腰かけていた。そのまんなかのは、見覚えのある中村警部だった。みんな腰にピストルをさげていた。
 広い車だった。両側に堅い長イスがあって、三人ずつ向かいあっていた。手が痛い。見ると、手錠がはまっていた。右となりにちょこんと腰かけている男にも見覚えがあった。殺人会社の専務、須原だった。かれも手錠をはめられていた。左どなりのまるまっちい色白の男も知っていた。ちょびひげをはやしていた。地底パノラマ王国の持ち主だ。かれも手錠をはめられていた。
「ははあ、これは罪人護送のバスだな」
 影男は夢からさめたように、やっとそこへ気づいて、となりの小男須原と目を見合わせた。須原はニヤッと笑った。こちらもニヤッと笑って見せた。
「気がついたようだね。きみたちは谷底で眠っていた。車まで運ぶのに、ずいぶんほねがおれたよ」
 中村警部が柔和な顔でいった。
「で、ぼくたちは、これから警視庁へ行くんですか」
「そうだよ。きみたちも、もう年貢ねんぐの納めどきだからね」
 鉄棒のはまった小さな窓のむこうに、運転手の制服巡査の背中が見えていた。普通のバスのような窓がないので、町を見ることはできなかった。お互いに顔見合わせているほかはなかった。
 三人の犯罪者は、殺風景な留置室を頭に描いていた。それから刑務所の光景が浮かんできた。影男とちょびひげはそれ以上のことは考えなかったが、小男の須原だけは、絞首台を幻想していた。ブランとさがった、あのいやなかたちが、かれの心臓のあたりをフワフワ漂っていた。考えてみると、二十数名の委託殺人をやっている。死刑はまぬがれないな。共同経営者のふたりの重役も、むろん同罪だろう。かれらもじきにつかまるにきまっている。
 希代の異常犯罪者三人三様の思いをのせて、バスはもう、警視庁の赤レンガの見えるお堀端ほりばたにさしかかっていた。
(『面白倶楽部』昭和三十年一月号〜十二号連載)





底本:「影男」江戸川乱歩文庫、春陽堂書店
   1988(昭和63)年3月10日新装第1刷発行
   1993(平成5)年11月20日新装第3刷発行
初出:「面白倶楽部」
   1955(昭和30)年1月号〜12月号
※「自動的」と「自働的」の混在は、底本通りです。
入力:入江幹夫
校正:高橋直樹
2019年7月9日作成
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●表記について
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「褒」の「保」に代えて「執」、U+465D??2-6、86-13
posted by 乱歩マイスター at 08:44| 影男 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする